月別アーカイブ: 2015年9月

まるくまあるく

Seal Pups)

今、月を見てきた。

まるくてきれい。

雲が濃い目だから、月のまるさを一層際立てる。

 

月並みにまるいアザラシの赤ちゃん(上)かわいいわ…

そういえば、昨日だったか見ていた番組で、(世界ふしぎ発見だったかな)ロシア近郊にある民族を取り上げていて、厳しい寒さに耐えるために凹凸の少ない風貌になったとの解説が。

そうなのね。わたしののんびりした(訳:鼻ぺちゃ)日本人顔は、けっこう寒さに強いということか。うれしいようなそうでもないような。

今宵の月もまるいし、これからくる寒さに備えて、もっと人間まるくしておくぜ!と謎のやる気が湧いている9月最後の日曜日の夜。

 

二杯目のお茶

 

前回からの続き。

「ビタミンいっぱいだよ」の母のひと言に込められた、優しさあたたかさ。

そこから思い出したことと、思いついたこと。

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世の中に情報が溢れているこの頃、ひょっとしたら、

わたしたちは「すぐに答え(応え)が得られる」ことにだいぶ慣れてしまっているかもしれない。

分からないことは、ちょっと調べればインターネットになんでも情報がある。

知らない街でも、自分の嗅覚だけを頼りに探していた時代とは異なり、

たとえば『美味しい』『餃子』と検索するだけで、餃子の名店の手がかりが簡単に手に入る。

(なんで餃子なのかって、今わたしが食べたいからです。脱線)

暫く会ってない人でも、FacebookやTwitterを覗きにいけば、大体の様子が分かる。

苦労なく、ダイレクトに、ちゃっかりと。

 

自分の疑問に対する「答え」が欲しいとき、それに対する反応が速やかに返ってくることを期待するし、得られた反応、イコール、欲しかったことに対する「答え」そのものだと思ってしまう。

正確には、分かるのではなく、分かったつもりになっているだけなのに。

バーチャルな情報を受信して、脳内で繋ぎ合わせて、自分オリジナルの情報を仕上げているだけなのに。

ヤフーの知恵袋で、ちょっと知りたいことを質問して、回答が集まってきて、「ああそうか」とヒントは得られるけれど、実際の行動に起こすまでは実のところはなにも解決していない。

または、自分で質問すらしていないけれど、検索して同じような悩みとそれに対する回答を見つけて、とりあえずはほっとしてしまう。

喩えて言えばそんな感覚なのかなあ。ちょっと違うかもしれないけれど。(相変わらず適当)

 

昨今の情報化社会のレスポンスの早さや分かりやすさは、わたしたちの行動を刺激し促進するというよい面がある一方で、実際の人間関係にも、無意識に同じように当てはめて、「単純解」を求める風潮を生み出してしまっているかもしれない、とも。

たとえば、家族・友人・クラスメート・部下・同僚が浮かない顔をしているとき。

目の前の相手が、不機嫌でどうやらなにかしらの問題を抱えていそうなとき。

「どうしたの?」「何かできることある?」と、積極的に声をかけたほうがよい場面ももちろんある。

いのちの危険が迫っているような、深刻な様子のときは、もちろん気づいたらすぐに。

一方で、ちょっと落ち込んでいたり、ちょっと心ここにあらずだったり、ちょっと腹の虫の居場所がわるかったりぐらいであれば、様子をみたり、しばらく見守るなりして、やっぱり必要そうだな、と思った時点で早かれ遅かれ声をかければいい。

だって、人間はシンプルだけど、その経験は多種多様でその人オリジナルのものだし、ある経験(点)から、なんらかの「答え」「道」「ストーリー」(線)を形づくっていくのもその人自身。周りからサポートはできるけれど、答えを見つける/決めるのは結局自分だから。

でも、側からみていて過剰なぐらいに「相手を気遣う」「相手にかまう」「相手に口を出す」姿を目にする機会がいろんな場面であり、それって本人がいずれ自分で気づいて自分で決定すればいいことなのに、横から答えを押し付けることで物事をもっと煩雑にしてないのかしらという疑問がむくむく。

言い換えれば、冒頭に書いたような「すぐに答え(応え)る」ことを相手に求めている感じがしてしまう。もうしばらく、のんびりと見てあげればいいのに。

うーんでもその人が好きで気を遣っているならそれでいいじゃない、と放置しておこうと思うクールな自分と、

そう言いながらも「何か違うんじゃ…」とどこかで感じ続ける自分自身の感性に好奇心もりもりのホットな自分と。

そして、今回はどうやらホットな自分が勝ってしまった。(にんまり)

 

「相手を気遣う」「相手にかまう」「相手に口を出す」シチュエーションを目にしたとき、

または、わたし自身が、目の前の相手に衝動的にそうしてみたくなったとき。

「わたしは、このコミュニケーションとどう向き合うだろう」

と、次のような問答を心のなかで交わしてみる。イメージ。

 

それって、「相手」を信じている?

それって、「相手」を認めている?

・・・だって、◯◯さんのことが心配だから。

それ、ただの自己満足かもしれない。

それって、「自分」を信じている?

それって、「自分」を認めている?

・・・だって、対応しなかった自分があとで責められるのがいやだから。

それ、ただの自己防衛かもしれない。

 

「わたし」が「あなた」に向ける思いやまなざしに、

「わたし」の「あなた」へのゆるぎない愛と信頼が込められていれば、

きっといつかは感じられるし、きっといつかは受けとめてくれる。

そう思うと、今「あなた」にかけたいことばやとりたい行動が変わってくる。

Dogs and Cats Hanging Over White Banner

 

先日、母が注いでくれた一杯のお茶と、かけてくれた何気ないことばから、

かつて、中高時代に母とした大喧嘩と、そのときに思わず口を吐いて出たひどいことばと、最後は何も言わずにさみしそうにしていた母、その数年後の結末。そんな出来事があったことを唐突に思い出したんだ。

うーん。極端な例なのかもしれないけれど、

ずっと「この子は、耳がきこえないけれど大丈夫」と信じて育ててもらったし、

時間はかかったけれど、そんな風に信じてもらっていたこと/認めてくれていたこと/愛されていたことにわたしも気づけたし、受けとめることもできたと思う。

だから、

自分の感情や感覚に一喜一憂するのが人間だし、それでいいとも思うけれど、

他人の感情や感覚に一喜一憂して一挙一動をとる必要はない、とも感じる。

すぐに目に見える「結果」を求めるあまり、今そこにある「情報」を交わし合うだけのデジタルなコミュニケーションになっていないだろうか。

すぐに目に見える「解決」を求めるあまり、今自分がもつ「感情」「気遣い」を伝えるだけの身勝手なコミュニケーションになっていないだろうか。

自戒を込めて。

相手を心から大切だと思い尊重するならば、深呼吸をして、じっと見つめる見守るという、ことばにしない類のコミュニケーションもあるだろう。

何を伝えられるだろうか、今伝えるべきなのか、いつかそのときがくるだろうか。

相手をもっと信じていいし、そう感じた自分をもっと信じていい。

あの時言い返すことはできたのに、口をつぐみ、その後何も言わずにずっとわたしを見守り続けてくれた母のように。

もう一度、ぶれない軸で、ぶれない心で。

 

今日のひとこと:

つらつら思うままに書いていたら、こんな具合の今日のコラム?エッセイ?に。
昔も今も、書き始めると止まらないところは変わらない。笑
あれま!どうしようかなあ〜と思案していると、文字数ジャスト2500と気づき、うれしくなってこのまま公開してみます。

一杯のお茶

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またあたった。

と言っても、宝くじの話ではない。

食あたりである。

でも今回は軽かったし、食あたりというほどのものでもないかも。

おとといの夜、アボカドと一緒に和えたサーモンくん、君があやしいね。

しかしあたると一番つらいのは、やっぱり、鶏肉由来のカンピロバクターだな。間違いない。もうカンピロバクター様と呼びたくなるぐらい。

たまごが好きな割りには鶏肉にあたりやすい体質なので、行きつけの内科医さんから「あらあら、またあたりましたね〜」と、宝くじカウンターおばちゃんの台詞のごとく労われてしまうという。

 

そんなこんなで、寝込むほどではないけれど、

微熱も続いて、いつもよりちょっと元気がないわたしのからだ。

今朝、通勤前に身支度を終えて朝食を頂いていると、母がふいに言う。

「そこに緑茶淹れているからね、ビタミンいっぱいだよ」

朝はもっぱら白湯メインなわたしだけど、めずらしくお茶も添えてくれていた。

『熱はもう下がったの?』

『はやく元気になりなさいよ』

そんな直接の声がけではなかったけれど、「ビタミンいっぱいだよ」という何気ないそのひと言が、しんどいからだをしっかり包んでくれたような気がした朝だった。

ことばにしないけど、ことばにしない分だけずっしりしっかり感じられる優しさあたたかさがあるんだなって。

 

そして、この気づきが、昨今なんとなく心に引っかかっていたことも「あーそういうことだったのかな」とするする解いてくれた今日。

うーんねむい、続きはまた明日…

たまには弱ってみるのもわるくないけど、やっぱり元気なのがいちばんだわとほほ。

 

かかと

beautifully cared female feet on a white background

天気もいいし、ちょっとさんぽへ。

 

「かかと」って意外にあなどれない身体のパーツだ。

かかとをしっかり使って足を運ぶことを心がけると、

それだけで、丹田(下腹部)をしっかり締めて歩くことができて腹筋に効くし、

座るときにかかとをしっかり床につけることを意識すると、

それだけで、骨盤をしっかり立てた姿勢が維持できて腰や背中の負荷が軽い気がするし、

わりと当たり前の日常動作が、かかとを意識することで機能的な所作にアップグレードする。

 

以前通っていたデュークさんのウォーキングで、

私たち人間は、かかとから自分の中の悪いものを大地に吸い取ってもらって、

その後、つまさきに体重をかけ、そのとき地球からエネルギーをもらって前に進む。

歩くということは、その繰り返しで、だからこそ私たちは前に進むことができるんだ

と教えてもらったことがある。(ニュアンスです)

今日も明日もかかとでしっかり歩こう。ずんずん。

 

今日のひとこと:

「かかと」ってかわいい語感だな〜。
じゃあ英語でなんていうんだろう、と調べてみたら、「HEEL」。
たしかにそうだ!でもそうきたか!ヒールだったか!と、のんびり休日特有の妙なテンションに。
それにしても、この温度差がたまらないから、日本語も好きだし英語も好きだなあと思う。

 

3つのよいことキャンペーン

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靴を買った。どこ出かけよう〜。

靴購入後そのままの足で、その靴底に滑り止め付けてもらう調整に持ち込もうとデパートに寄ったはずが、デパ地下で食材買い込み三昧と化して、本来の用事を今頃思い出すという。(遠い目)

また、靴持って行かないと。(黄昏)

そういえば、先の温泉宿でも、トランプの神経衰弱勝負でビリだったし。

記憶力の低下が激しいわ…

とりあえず、神経衰弱ビリ脱出のためにゲーム必殺技ないかググってみよう。

安易だけど。いひひ。

 

というわけで、少し気分が暗くなってきたので、

ここで、本日の、3つのよいことを振り返ってみることにする。

その1)気に入ってるブランドで、店員さんの見立てで、秋冬に向けてぴったりの色の履き心地のよい靴を見つけられたこと

その2)アイスティーの氷なしをオーダーしたら、なみなみ注いだ状態で提供してくれたこと(他店だと、氷の分だけ差し引いた少量で出されることも多い)

その3)ジム退会に行ったら、手続きを担当してくださったフロントの方が、数年前の入会時にも担当してくださった方で、「YUKIさんあのとき運動するって燃えてましたよね〜!」「そうなんです、やっぱり運動してなんぼですよね!」と二人で入会するんだか退会するんだか訳分からないテンションに突入したこと

ふんふん。割といい日だったな。(単純)

 

この「3つのよいこと」は、心理学者の M.セリグマン博士が提唱する方法。

人間はもともと、ポジティブなこととネガティブなことがある場合、どちらかというとネガティブな要素に照準を当てる心理的な傾向がみられ、それをネガティビティバイアスという。

Happyなできごとより、Unhappyなできごとの方が記憶に残りやすかったりするのもそのため。

3つのよいことは、人間のもつそのような思考特徴を、意識的にポジティブ寄りにシフトするための行動療法ともいえるものだという。

たしかオリジナルの方法だと、「いいこと」を書き出して「その理由」も付記する、とかだったような。「いいこと」を導くことができた理由も含めて省みることで、また次のよいことスパイラルにつなげる目的なのだろうか。

興味のある方の参照用にとTED画像を埋め込んでみたけれど、セリグマンさんがやたらでかい。

なので、とりあえず、このブログの最下部に移動しました。笑

もし、この心理学の考え方に興味をお持ちの方いらっしゃればどうぞ。

 

気を取り直して、「3つのよいこと」に話を戻すと。

どうして、今日これを取り上げたか。

遡ればわたしがちょうど仕事が忙しくて、家と会社の往復で無味乾燥な日が続いていた時期。

「さてどうしたものか。鬱憤たまってるけど出かけにくいし」と思いめぐらし、

「気晴らしに、前に人から教えてもらったあれやってみよう。名付けて3よいキャンペーン。」ということに。

キャンペーンを始めたのは、9月1日。

そして今日(昨日)、9月21日。

スマホのスケジュールアプリに、「3つのよいこと最終日」と書いてある。

なぜ、21日間なのか。

それは、21日続けることが、習慣として身につくうえで1つの指標になるという話を見聞きしたから。これ科学的な根拠はなさそうだけど、10日だと短いし1ヶ月だとややハードル高いし、ちょうどよい感じ。

でもって、何事もなく最終日を安穏と迎えたような書き方をしているけれど、今朝このスケジュール内容を目にするまで、キャンペーンやっていたことすらすっかり忘れていた。

16日頃までは真面目にやっていたはずなんだけど、いつの間にか抜けるものですね。

仕事も落ち着いて、通常運転に戻ったから意識的に行うことが不要になったのかな、

と咄嗟にひらめくあたりが、ポジティブ人間の本領発揮か。

でも思い返せば、このキャンペーンは割に効果はあった気がする。

疲労がたまると、普段ポジティブに生きていても、どうしても心にも体にも澱(おり)が溜まってくる。それを、きれいな水ですすぐようなきもちになれたというか。

澱の存在は否定しないけれど、1日の終わりによいことを指折り振り返ることで、透き通った水で流していく感じ。

この方法は、澱(=ネガティブな人間関係やできごと)の存在は、無視もせず、かと言ってむりやり肯定もせず、というフラットな姿勢で一旦放置するのもポイントかもしれない。

変えられないことはそのままに、自分の「スタンス」「視点」「捉え方」「関わり方」を変えるということにつながる。

大きいものから小さいことまで「よいこと」へのアンテナを研ぎ澄ますので、見える世界も徐々に変わるし、そこからさらに、よいこと/そうでないことに対して捉える意識とその行動も自然と変わる、という期待効果があるんだろうなきっと。

思い出した都度でいいから、もうちょっとだけ、続けてみようか。

 

参考:マーティン・セリグマンのポジティブ心理学 in TED

 

「違和感」の正体

Bien tre.

山登りと温泉、という組み合わせがあるとき、

山登り、のち、温泉に行って身体を休める、という流れがごく自然なのだろうけど

生来の「無計画臨機応変型」につき、

温泉宿でゆっくりしたあと、帰りしなに登山道を発見して「ちょっと寄ってみよう」パターンに。

そして、ちょっとでは済まなかった。チーン

緩やかな道々で木漏れ日満喫ハイキング、ではなく、樹木茂るごつごつ山道ひたすら登り、と化す。正味1時間ほどの山中ステイでしたが、いやあいい汗かいた。

のちに下界(?)でお会いした地元の方によると、アルプス登山などを予定している方が普段のトレーニングで活用することの多いコースなんだそうな。たしかに。

というわけで、帰宅後、丸一日ぐったりしていましたが順調に回復中。(現在進行形)

ああ温泉行きたい〜。(結局)

 

本題:行動と習慣について

さて、ようやく本題。笑

つい先日、仕事関連で、とあるフォーラムに参加していくつかの講演を聴く機会があった。

そのうちの1つは、永谷研一さんというITシステム開発者の方による「いかに行動を習慣化して、目標達成につなげるか」というテーマ。

まじめな顔で耳を傾けながら(目を見開きながら)、担当している施策上ぜひおさえておきたいテーマだわと神妙にメモを進めつつも、習慣についてなにげに意識している今日この頃の私は、聞きながら楽しくて内心のウハウハを抑えきれない。

お話のポイントは以下:

  • 何かを達成したいがための、習慣であること。
  • 目標を達成するために必要なことは、行動であること。
  • おさえるべきポイントは、どのような行動を計画するかということ。
  • 行動には、1)やること(タスク),2)やり続けること(行動習慣)の2種類があること。
  • 単純な行動習慣ほど、成果が高いこと。

そして、

  • 目標に向かって行動を続けることが習慣になると、自己成長のくせがついてくること。
  • 目標を達成する力は、能力でも根性でもなく、「技術(スキル)」であること。

 参考:永谷研一著「絶対に達成する技術」中経出版

ほかにも、具体的なその5つの技術についてなどいろいろレクチャーがあり。

これは別の機会があればまた取り上げたい… ないかな…(適当)

 

きもちわるさの正体

上記のお話が進むなかで、個人的に印象に残った場面。

「みなさん、ちょっと腕組みをしてみてください」と聴衆に呼びかける永谷さん。

そして、各自が胸の前で両腕を組む。右手が上の人、左手が上の人。

「ではその腕を、逆に組み直してみてください」。

「どんな感じですか?・・・いかがですか?」と最前列の方へ問いかけ。

「きもちわるいです」との答え。

「うんそうですね、きもちわるい!」すかさず応じる永谷さん。

「うんそうですね、たしかにきもちわるい!!」これはわたしの心の声。(紛らわしい)

「きもちわるさの正体、それは今までの習慣と違うことをしているからです」

「何かを変えるとき、きもちわるさは付きものなんですよ。習慣になれば、そのきもちわるさは消える」

今まで当たり前に無意識にやっていた行動を、意識的に変えることに対してきもちわるさは付きもの、なのだという。たしかに、変化に対して一種の「きもちわるさ」は感じるかも。違和感というか。

「きもちわるさ」「違和感」を感じるシチュエーションは色々あるし一概には言えないけれど、脳が一生懸命、今までの慣れに反した「変化」に適応しようとしている反応だと捉えることもできるのだな、あああおもしろい。

 

変わること、守ること

そして、ここのところ感じていた違和感ってもしかしたらこれだったのかなあと思い至る。

セッション中に腕を組み替えて、本来の利き手ではない腕が上に来た瞬間の感覚と、なんだか数年来ずっと拭い切れていなかった「よくわからないんだけど、何かがいつもと違う」という感覚。

ここのところいろいろあったし疲れているのかな、そのうちまた元に戻るだろう、

と消化しようとしていたけれど、自分の中で「変わろう」とするサインだったのかも。

「変わろう」と「守ろう」のせめぎ合い。

それはこころの面もそうだし、30代に入るとからだの面もある。

放置せず、きちんと調べる(=診察・治療を受ける)べき類のからだの「違和感」もあるだろうし、

目の前のできごとや相手に対して感じる、自分の行動を問われる類の「違和感」もある。

「どうしちゃったんだろう」

「こんなはずではないのに」

「なんか思っていたのとずれている?」

そんな違和感は、「わたしは変わる?それとも守る?」という自分からの問いかけだと受けとめて、

守るべきもの維持すべきものはぶれずに残し、

変わるべきもの淘汰すべきものは潔く脱ぎ捨て新しくなる、

そんな姿勢を保ちながら、常にフレッシュな自分でいられたらいいなあ。

また1つ、気づけてよかった。まる。

 

今日のひとこと:

文章長くて読みにくいかな〜と、段落毎に小見出し追加してみたけど小さな違和感ぐぬぬ。

変えるべきか変えずにいくか、はてさて。

 

見えないのに、見えてきたもの

little girl standing on white background and pretending that hol
雨。雨。つめたい雨。

雨はとりたてて好きでもないし、さしてきらいでもないのだけれど、

以前よりは好きになったかもしれないなあとぼんやり思う。

1つのきっかけは、8月の霧雨が降る朝、窓ぎわに立って、ぼんやり遠くを望んでいたときのこと。

いつものように空を仰いでみても、白一色。

空の雲を眺めるのが好きなわたし。「つまらないな〜」と視線を下に落とす。

空の視界が悪いので、自然と、霧と街の境目あたりに視線がいく。

霧がつくりだすなんちゃって地平線のあたりに、不可抗力的に、ぼんやりと目をやってみる。

・・・あれ、

「ここから新幹線が走っているのがよく見えるんだな」

「あんなところに、看板あったっけ」

「百日紅の花木、あそこの公園にも咲いてるんだ」

見えないわりに、見えてくる。

見えないなりに、見えている。

よく見えるに越したことはないかもしれないけれど、当たり前に見えているときには気づかない、違う景色が広がってくる。制約されることで現れる境界線は、ときに新しい世界に気づくヒントを授けてくれる。

 

きこえないわりに、聴こえてくる。

きこえないなりに、聞こえている。

「ない」と「ある」はいつだって表裏一体。

きこえないからこそ気づける、些細な表情と心情がある。

 

ないと決めているのは自分だけ。あると決められるのも自分だけ。

そして、この「決める」力を引き出すのは ”Love my sense,” 自分の感覚を自分のものとして信じられる肯定感なのかも。

自己決定力やその先にある行動力は、自己肯定感に裏打ちされるのでは。

昨今、よくポジティブ心理学とかレジリエンスとかアドラー心理学とか取り上げられるようになって久しいけれど、その根底に流れている共通のビジョンは、「自分を好きになる(受けとめる/認める)」ことに尽きるんだろうなと個人的には思っている。

何かが足りない自分、がんばれない自分、なんだかんだ経験から学んでいる自分、どこかちょっと無理している自分・・・それぞれの人の中にいろんな自分がいると思うけれど、全部ひっくるめて「よくやってるね!(肩ぽん)」と自分で自分を褒めてあげられればいい。

それがきっと、自分を好きになる第一歩。まる。

 

今日のひとこと:

ホームページつくったばかりで、相変わらずわからないことだらけ。
今日は「サイトアイコン」とやらを設定してみた。パンの画像。美味しそう。笑
「タグ」ってなんだろう〜。

ゆがゆでゆ

Snow monkey of the falling hot spring

ゆがゆでゆ!

さて、なんて読むでしょう。

……

……

……

正解は、

ゆ(私)がゆ(湯)でゆ(癒)

飲み会帰り、肌寒かったけれど、お風呂であたたまって元気になったというくだりでした。ちゃんちゃん。

何歳になってもこういうことば遊び、大好き。

好きすぎて、時々訳わからない領域に達しているような。

とりあえず、お風呂と日本語とだし巻きたまごがある日本、素晴らしいです。(合掌)

 

今日のひとこと:

まるでほろ酔いみたいな文面ですが、まったく飲んでおりません。ではおやすみなさい〜(逃亡)

 

習慣

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いつもの通勤路に花屋さんがあって、店先の緑を歩き眺めるのが朝の習慣に。

今朝、ふと隣の蕎麦屋さんに目が向く。すると軒先に背丈ほどもある立派な植木が。しかもふたつも。

もしかしたら以前その花屋さんから購入したものかもしれないけれど、今や花屋で扱っているグリーンよりはるかに生命力強めに育っているという。思わず、「こりゃやられたな〜」となぜか喜ぶわたし。

その瞬間、頭をよぎったこと。

ある「習慣」をもつことは、その行動を徹底的に自分のものにするために大切だとされるけれど、

もうひとつ、

何気なくいつも行っている習慣があれば、それとの対比から、自分の中や外で起こっている「変化」に気づくことをも促してくれる。

非日常(=変化)は、日常(=習慣)があるから際立つもの。

だから、自分がよいと思ったことをどんどん日々の習慣にすることは、その周辺にある、新たな発見や気づきにつなげるためにも大切なのかもしれないなあとふと。

 

この場合、もしもわたしに花屋の店先を眺めるという「習慣」が無ければ、

ふと目線を変えるというごく小さな「変化」を経て、目にとまった蕎麦屋さんの元気な植木とご対面して無性に嬉しくなる、

という今朝の出来事はそもそもなかったわけで。

もしかしたら、いつかは植木の存在に気づいたかもしれないけれど、「習慣」は「変化」を際立たせるという気づきとセットにはならなかったかもしれない。

うーん、いまひとつうまく説明できてない気がするけど。

 
実は、今意識しているキーワードが「習慣」なわたし。

行動しはじめたわたしだけど、飽き性だし、どこまで習慣化するのがいいのかなあとぼんやり考えていたところ。

「習慣」づけるということは、同時に「変化」にも気づきやすくなると思えば、続けることも苦にならなそう!いいこと気づかせてもらったな〜(鼻歌)