二杯目のお茶

 

前回からの続き。

「ビタミンいっぱいだよ」の母のひと言に込められた、優しさあたたかさ。

そこから思い出したことと、思いついたこと。

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世の中に情報が溢れているこの頃、ひょっとしたら、

わたしたちは「すぐに答え(応え)が得られる」ことにだいぶ慣れてしまっているかもしれない。

分からないことは、ちょっと調べればインターネットになんでも情報がある。

知らない街でも、自分の嗅覚だけを頼りに探していた時代とは異なり、

たとえば『美味しい』『餃子』と検索するだけで、餃子の名店の手がかりが簡単に手に入る。

(なんで餃子なのかって、今わたしが食べたいからです。脱線)

暫く会ってない人でも、FacebookやTwitterを覗きにいけば、大体の様子が分かる。

苦労なく、ダイレクトに、ちゃっかりと。

 

自分の疑問に対する「答え」が欲しいとき、それに対する反応が速やかに返ってくることを期待するし、得られた反応、イコール、欲しかったことに対する「答え」そのものだと思ってしまう。

正確には、分かるのではなく、分かったつもりになっているだけなのに。

バーチャルな情報を受信して、脳内で繋ぎ合わせて、自分オリジナルの情報を仕上げているだけなのに。

ヤフーの知恵袋で、ちょっと知りたいことを質問して、回答が集まってきて、「ああそうか」とヒントは得られるけれど、実際の行動に起こすまでは実のところはなにも解決していない。

または、自分で質問すらしていないけれど、検索して同じような悩みとそれに対する回答を見つけて、とりあえずはほっとしてしまう。

喩えて言えばそんな感覚なのかなあ。ちょっと違うかもしれないけれど。(相変わらず適当)

 

昨今の情報化社会のレスポンスの早さや分かりやすさは、わたしたちの行動を刺激し促進するというよい面がある一方で、実際の人間関係にも、無意識に同じように当てはめて、「単純解」を求める風潮を生み出してしまっているかもしれない、とも。

たとえば、家族・友人・クラスメート・部下・同僚が浮かない顔をしているとき。

目の前の相手が、不機嫌でどうやらなにかしらの問題を抱えていそうなとき。

「どうしたの?」「何かできることある?」と、積極的に声をかけたほうがよい場面ももちろんある。

いのちの危険が迫っているような、深刻な様子のときは、もちろん気づいたらすぐに。

一方で、ちょっと落ち込んでいたり、ちょっと心ここにあらずだったり、ちょっと腹の虫の居場所がわるかったりぐらいであれば、様子をみたり、しばらく見守るなりして、やっぱり必要そうだな、と思った時点で早かれ遅かれ声をかければいい。

だって、人間はシンプルだけど、その経験は多種多様でその人オリジナルのものだし、ある経験(点)から、なんらかの「答え」「道」「ストーリー」(線)を形づくっていくのもその人自身。周りからサポートはできるけれど、答えを見つける/決めるのは結局自分だから。

でも、側からみていて過剰なぐらいに「相手を気遣う」「相手にかまう」「相手に口を出す」姿を目にする機会がいろんな場面であり、それって本人がいずれ自分で気づいて自分で決定すればいいことなのに、横から答えを押し付けることで物事をもっと煩雑にしてないのかしらという疑問がむくむく。

言い換えれば、冒頭に書いたような「すぐに答え(応え)る」ことを相手に求めている感じがしてしまう。もうしばらく、のんびりと見てあげればいいのに。

うーんでもその人が好きで気を遣っているならそれでいいじゃない、と放置しておこうと思うクールな自分と、

そう言いながらも「何か違うんじゃ…」とどこかで感じ続ける自分自身の感性に好奇心もりもりのホットな自分と。

そして、今回はどうやらホットな自分が勝ってしまった。(にんまり)

 

「相手を気遣う」「相手にかまう」「相手に口を出す」シチュエーションを目にしたとき、

または、わたし自身が、目の前の相手に衝動的にそうしてみたくなったとき。

「わたしは、このコミュニケーションとどう向き合うだろう」

と、次のような問答を心のなかで交わしてみる。イメージ。

 

それって、「相手」を信じている?

それって、「相手」を認めている?

・・・だって、◯◯さんのことが心配だから。

それ、ただの自己満足かもしれない。

それって、「自分」を信じている?

それって、「自分」を認めている?

・・・だって、対応しなかった自分があとで責められるのがいやだから。

それ、ただの自己防衛かもしれない。

 

「わたし」が「あなた」に向ける思いやまなざしに、

「わたし」の「あなた」へのゆるぎない愛と信頼が込められていれば、

きっといつかは感じられるし、きっといつかは受けとめてくれる。

そう思うと、今「あなた」にかけたいことばやとりたい行動が変わってくる。

Dogs and Cats Hanging Over White Banner

 

先日、母が注いでくれた一杯のお茶と、かけてくれた何気ないことばから、

かつて、中高時代に母とした大喧嘩と、そのときに思わず口を吐いて出たひどいことばと、最後は何も言わずにさみしそうにしていた母、その数年後の結末。そんな出来事があったことを唐突に思い出したんだ。

うーん。極端な例なのかもしれないけれど、

ずっと「この子は、耳がきこえないけれど大丈夫」と信じて育ててもらったし、

時間はかかったけれど、そんな風に信じてもらっていたこと/認めてくれていたこと/愛されていたことにわたしも気づけたし、受けとめることもできたと思う。

だから、

自分の感情や感覚に一喜一憂するのが人間だし、それでいいとも思うけれど、

他人の感情や感覚に一喜一憂して一挙一動をとる必要はない、とも感じる。

すぐに目に見える「結果」を求めるあまり、今そこにある「情報」を交わし合うだけのデジタルなコミュニケーションになっていないだろうか。

すぐに目に見える「解決」を求めるあまり、今自分がもつ「感情」「気遣い」を伝えるだけの身勝手なコミュニケーションになっていないだろうか。

自戒を込めて。

相手を心から大切だと思い尊重するならば、深呼吸をして、じっと見つめる見守るという、ことばにしない類のコミュニケーションもあるだろう。

何を伝えられるだろうか、今伝えるべきなのか、いつかそのときがくるだろうか。

相手をもっと信じていいし、そう感じた自分をもっと信じていい。

あの時言い返すことはできたのに、口をつぐみ、その後何も言わずにずっとわたしを見守り続けてくれた母のように。

もう一度、ぶれない軸で、ぶれない心で。

 

今日のひとこと:

つらつら思うままに書いていたら、こんな具合の今日のコラム?エッセイ?に。
昔も今も、書き始めると止まらないところは変わらない。笑
あれま!どうしようかなあ〜と思案していると、文字数ジャスト2500と気づき、うれしくなってこのまま公開してみます。

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