月別アーカイブ: 2015年10月

出逢い

Sunflower face

いつもの通勤路、オフィスの近く。

駐輪場の脇に、彼はいた。

ちょっと寒そうだけど、でもすくっと誇らしげに。

にっこりと咲いていた。

 

こういう思いがけない出逢いがあるから、人生っていいね。

おかげでこの一週間、毎朝毎夕の通勤路で背筋が伸びる思いでした。

週明け、まだ会えるかなあ。

 

手で話す(3)

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「えっ、YUKIさんって手話できるの??」

ときどきまわりの方に訊かれる質問。

今日も打ち合わせしながら、たまたまメンバーの皆さんとそんな会話に。

「そうです、できるんですよ〜」と私。

「じゃあ、『ちょっと待って』ってどうやるの?」

(試合中によくやるタイムのTをつくりながら)「こんなんじゃない?」

「いやあこうでしょ」(野球のサインを超速にしたような動き)

「あごの下に手を添えて『待つ』をするんです、これ」

と私がやってみると、みなさん揃って『待つ』の手話。

見ようによっては、冒頭画像のようなちょっとぶりっこの仕草なので、なんともかわいい。笑

『待つ』の手話表現は、この画像の片手バージョンに近いと思っていただければ。

 

でもまあ個人的には、形にとらわれず、

「ちょっと待って」という気持ちが動作と表情で伝われば十分だと思うので。

その点では、こちら↓の渋めのお姉さんもある種、手で話す達人でなかろうかと。

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ぶりっこ風に目で訴えかけるもよし、

渋めに眉間の度合いでやんわり伝えるもよし。

 

それにしても、

手話ということばひとつとっても

日本手話(手話特有の文法に基づき話される手話)や

日本語対応手話(通常の日本語に対応するかたちで話される手話)、

さらに海外で使われる「国際手話」や各国の手話などいろいろ。

 

「手話」はひとつの言語だし、

ある程度基本を備える必要もあるかもしれない、

でも結局、「手で話す」ことの原点は、渋めお姉さんのような表現にあるんだろうなと。

伝えたいきもちを、手をはじめとする身体と表情を使って表現する。

相手に伝わるまで、相手の反応をみながら、相手と楽しみながら。

普段、ことばによるコミュニケーションを当然のように行っているわたしたちだけど、

何かを伝えて、また、何かを伝えられる、

そのプロセスは単なることばの交換だけでなくて、

わたしはそこにどんな思いを込めて届けているか、また、相手のどんな思いが込められているのか。

そこに思いをはせると、コミュニケーションはとてつもなく楽しいし幸せな行為だなあとつくづく。

 

感音性難聴だと、いつだってことばの内容を100パーセント理解するのは難しい。

だから言語情報だけに特化すると、各場面でおおかた7パーセントぐらいしか取れていない気がする。

あくまでも個人的な感覚だけど。

一方で、表情や雰囲気等の非言語的情報を察しやすいからか不思議と話に付いていけたり。

「YUKIさんって、一体どれぐらい話が理解できてるの?」

これもときどきもらう質問。

うーん、難しいけれど、今のわたしならこう答えるだろう。

「たぶん7パーセントぐらい、でも気持ちはいつも100ですかね〜」

いつだって相対(きこえる皆さんときこえない自分の比較)と絶対(きこえない自分の揺るぎない軸)を往復している自分の感覚、きらいじゃない。

昔はこの感覚を、「どちらの世界の住人にもなりきれない」さみしい自分だと受けとめていた時期もあったけれど。

「どちらの世界の住人にもなりきれない」ことは、イコール、「どこに住むかは自分で決められる」んだよねきっと。

あああ楽しみ。(口癖)

 

今日のひとこと:

手で話すシリーズ、思ったより続くなあ〜

書いているとそれにつながるトピックスが、日常生活で偶然起こるのも面白い。

プランドハプンスタンス!(呪文風に)

 

手で話す(2)

heart

 

思いっきり脳を休めた週末は、なかなかことばが出てこないけれど思うがままに。

 

感音性難聴のわたし。

補聴器を付けているけれど、音声情報だけでは「きく」ことは難しい。

なので、「見る」こともセットにしてはじめて声や音を「きく」ことができる。

 

そして、こんな属性だから感じられる幸せも多い。

その1つが、

まわりの方たちが、きこえないわたしに一生懸命伝えようとしてくれる姿。

はっきり口を動かしてくれたり、

口元が見えるようにとわざわざマスクを外してくれたり、

いつも以上に身振り手振りを増やしてくれたり。

 

会議や打ち合わせでも、座る位置だったり、

「大丈夫伝わってる?」とふと気にかけてくれたり。

 

高校時代からかな、まわりに、指文字や手話を覚えてくれる友人や先輩・同僚も。

はじめて覚えた手話が、「気をつけて」な大学時代の友人もいたな。笑

後ろから近づく車の音がよくきこえないわたしは、彼女にとって危なっかしいらしく

道路をいっしょに歩きながら、

しょっちゅう「ゆき、気をつけて!」と声かけてくれたっけ。

冗談まじりだったけれど、本心で心配してくれてたんだろうなあと今思う。

 

あらためて、これまでに出会ったひとたちと、

数え切れないほどの「ことば」を交わし、

同時にたくさんのあたたかい「きもち」を頂いてきたんだなあとほっこりする。

昔は、それをどこか素直に受け取れないもうひとりのわたしがいた気がするんだけど、なんかいつの間にかいなくなったなー。笑

家族もそうだけれど、耳がきこえていれば普通になんでもなく通じることが決してそうではないので、やっぱり自分だけでなく、他のひとにも不便をかけていることがどこか申し訳なかった。

でもなんか。

きこえないわたしと話すことが、不便だなと思ったらその人は離れていくわけだし、

わたしと話すことが、楽しいと思ったらその人はいてくれるわけだし、

シンプルでいいんじゃないかなって、いつの日か思えるようになってきた。

ごちゃごちゃ考えたらきりがない。

世界は、自分が思うより、ずっとシンプル。

自分が今いるこの瞬間がありがたいものなのだと感謝するだけ、それでいい、それがいい。

 

 

今日のひとこと:

男の子の伝えていることばは、「I LOVE YOU」でした。
英語の指文字 I(小指)+L(親指と人差し指)+Y(親指と小指)をすべて合わせたサイン。うーんことばだけだと説明が難しいので、詳細は ”手話 I LOVE YOU”とぐぐってみてください。(適当)

ジャイアンみたいなこの子がこの表情で、愛してるを表現していることにじわじわきてしまう。

 

 

手で話す

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昨日、仕事終わりに、社内の手話サークルに顔を出してみた。

毎回行くたびに

『わあ〜、YUKIさんひっっさしぶり!』

と言われてしまう安定のゆうれい部員。

ゆうれい部員というか、宴会部員というか、宴会部員。(認めた)

小さい頃から声で話す訓練を受けたし、手話を覚えたのもほぼ成人してから。

普段の生活で手話を使う機会はあまりないわたしだけれど、ふとしたきっかけで手話でコミュニケーションする機会があると、とても気持ちがリフレッシュする。

仕事は、いわば左脳寄りの行為。

ロジックで考えるとか言語を秩序立てて用いるとか理性的論理的な世界。

それに対して、

手話は、右脳寄りの行為。

自分の身体とそのまわりのスペースをどう使うかとか、感情をより豊かに表現するとか感覚的空間的な世界。

脳をリフレッシュさせたいときは、この左脳と右脳を行き来するようなアクションを入れると良いらしい。たとえば仕事でデータ集計に集中した日(=左脳をおもに使用)は、ものの整理整頓をする(=右脳をおもに使用)とか。

だから、仕事終わり(=左脳使用)に手話サークル(=右脳使用)ってのは、ちゃんと理にかなったリフレッシュ方法なんだねおもしろい。

みなさん、もし手話に興味のある方は随時部員募集中ですのでどうぞ!

と、ゆうれい部員なのに宣伝してみるの巻。

 

そんな感じで、久しぶりに手話サークルに出没したわけだけど、

帰り道、以前よりはリフレッシュ度がそんなに高くないな、と感じた。もちろん楽しかったんだけど、昔寄ったときのすごく開放された気持ち良さまでには至らず。

サークルには、実質30分ぐらいしかいなかったからかな?と思いつつ、

もう1つ有力な説が浮上。

それは!(ジャジャジャジャン)

 

わたし自身が、最近仕事をするなかで、右脳も頻度高く使うようになったから。

 

ふーむ。たぶんこれ、いい線いってる説だと思う。(自画自賛)

 

基本的に仕事って左脳の世界だけれど、そのなかで右脳をなるべく使うとはどういうことか。

以前ちらっと書いたけれど、

ここのところ、

いつもの「(施策や活動を)どうやるか(How)」だけでなく、

「この取組みを通じて、そもそも何を実現したいのか(What)」「なぜそれを進めるべきなのか(Why)」といった具合で根本も意識しようと努めており。

ノウハウやハウツーも大切だけど、そもそも、根底にある信念や大切にしたい思いはなんだっけ、と立ち返る。

もしかしてこの、 Howだけでなく、WhyやWhatをおさえる行動は、その施策なりプロジェクトなりをうまく動かすだけでなく、動かす人の「脳」にも好影響を与えるということなのかな。

言い換えると、

左脳優位といわれる仕事生活でストレスなり行き詰まり感をおぼえたなら、

プロセスの途中で息抜きにイラスト描いたり、書類の整理整頓したり、プレゼン資料のどこを変えるとより伝わるかとことん練ってみたり、といったような、おもに右脳を使う行動を意識的に取り込めばいい。

左脳と右脳のあいだの脳梁を往復させることで、脳が元気になる。

これは別の日に触れた、THINK/FEEL/TASTEのバランスとか高速回転の感覚に通じるな。

さしずめ、外界から何か情報を受信してTASTE、

その後、左脳:THINKと右脳:FEELをうまく切り替えつつ自分を活性化するという感じなのでは。

たまたまかもしれないけれど、そんな感じでうまく脳を使えているときに手話サークル覗いたから、以前ほどの「リフレッシュ度」は感じなかったという。個人的解釈だけど。

なんか、団子式にうまいこと気づきが連なってておいしいな!(興奮)

 

それにしても、もし右脳中心の生活が送れるならストレスはそんなにたまらなさそうだけど、それはわたしが右脳人間だからそう思うのかな〜。でもきっと、右脳人生だけだとやっぱり物足りなくて、たとえば日々ふと感じたことをこうやって左脳でがんばりながら言語化してみるという一連の作業が楽しいんだよな、ひとりごと。

 

手話とその周辺の表現性について書くはずが、なんか謎の方向に。

まあいいか。続きはまた次回。(逃亡)

 

今日のひとこと:

さてこの男の子は、なんて言っているでしょう?
ヒント・・・わたしからあなたへ、滅多には言わないけど伝えたいことば。ふふふ

耳が鳴る

guitar

一日の終わり、補聴器を外してお風呂に入ってほわーんと弛緩すると、

待ってましたとばかりに 耳鳴りが始まる。

わたしも、もう慣れたもので、「ハイハイ。」というきもちでそれを聞く。

小さい頃は、あまりなかった気がするけれど、

耳鳴りをはっきり自覚し始めたのは大学生の頃かなたしか。

ひとり暮らしをはじめて、補聴器を付けずに生活する場面が増えたことも関係ありそう。

 

ちょうど、家に NHK「きょうの健康テキスト」があり、耳・鼻・のどの病気についての特集が。

耳鳴りについても載っているのでちょっと抜粋:

⚫︎耳鳴りの仕組み(2015年1月号 p. 55より)

1)耳に入る情報の減少
↓ 耳はさまざまな音を脳に伝えているが、難聴になると耳から入ってくる情報が少なくなる。

2)中枢神経の抑制が利かなくなる
↓ 耳から入る情報が少なくなると、脳の聴覚中枢にある神経細胞の興奮を抑えられなくなる。

3)一部の細胞が異常に興奮する
↓ 抑制が利かなくなることで、聴覚中枢の神経細胞の一部に異常な興奮が起こってくる。

4)耳鳴りが起きる

 

ほーー、なるほどなー。

耳鳴りって

いわゆる音が「きこえにくい」状態を、

外界からのインプットが「足りない」ものと解釈し、

内界でその不足を補おうと、神経細胞の興奮というかたちで活動を起こす。

そしてそれを「耳が鳴っている」と、身体で感じている状況なのね。

身体って、体内だけのメカニズムと思いがちだけれど、

無意識に外の世界とのバランスもしっかり捉えているところが面白すぎる。

それにしても、毎晩細胞が興奮しているらしいわたしの身体は大丈夫なんでしょうか。

お疲れ様です、わたしのからだへ。(深々)

 

大学生活を送っている頃、家で補聴器外してのんびりしているとき

ふときこえてくる「耳鳴り」は、当時音楽を聴いて楽しむ習慣を持っていなかったわたしにとってちょっとした「BGM」だった。

きこえないわたしが、唯一、補聴器を通さずに味わえる音、

それが耳鳴りだったから、なんとなくいとおしく感じていた。

本当は聴くための耳なのに、わたしの耳はそうじゃないんだなというさみしさも込めて。

(会社に入ってからはそうでもなかったけれど。

疲れていると、いとおしいどころかうっとおしい時もあるから。

まあどんなに耳鳴りがしていても眠気がきたらすぐ寝れるのび太体質なので!)

 

耳鳴りがすることを英語では、

My ears are ringing.

または、singingとかhummingと表現するらしい、いいね。

同時に、日本語の「耳が鳴る」という表現もけっこう好き。

わたしの個人的な感覚だけど、たしかに「歌う」というよりは「響く」ものなので。

ギターの弦を弾いたときに、内にこもるような余韻の響きがそれに近いかもしれない。

耳鳴り、とすっかり名詞化されたことばだけど、

耳が鳴る、とちょっと動詞にしてみるとことばの本質がそこに見えてくる。

たぶん、今夜もわたしの耳は鳴る。

 

今日のひとこと:

耳鳴りの醸し出す「音」をオノマトペで表してみたかったけど、うまく絞り出せず。
ぼーんでもなく、じーんでもなく、つーん、ぶーん、、、意外と難しいこれ。

まもなく開演

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毎年、10月20日前後になると、どことなく血が騒ぐ。

ちょっとオオカミ男の気持ちが分かるような、分からないような。

この心持ち、なんでだろう?と思っていたら、そういうことか。

すっかり昔のことのようで、でもつい昨日のことのようにも。

大学の文化祭シーズン。

4年にわたって、ダンス部のみんなで上演したもろもろの作品。

衣装のタイツで足が滑って、文字通りすってんころりんしたのも懐かしや。

音楽から振付から衣装から照明まで、ぜんぶ自分たちで決めて楽しかったなあ〜

小さなステージだったけど、かけがえのない場所だったなああ(遠い目)

 

そして、歳月は流れ。

最近は、ちがうステージに立つ機会も増えた。

会社の会議場の演台や、大学教室の教卓。

大学での授業は数えるぐらいだけど。

不思議と、毎年この秋の時期に学生へレクチャーのご依頼を頂くので、

ちょっとだけ今までの経験ともつながっている気がしてうれしかったり。

ただ前と違うのは、話すということ。笑

 

わたしはつい最近まで、

話すのは苦手だから、なんとかスキルを身につけなきゃ、

そんな気持ちでいっぱいだった。

でも、

伝えたいことをしっかり伝えきる、それだけでいいんだなって。

ただし全力で。心をこめて。

 

育成に携わっていると、仕事でも学校でも、

How(どうやるか)を伝えて、理解してもらうことに気をとられがちだけど、

その根底にあるWhy(なぜやるか)やWhat(ではなにをするか)も

きちんと自分自身のことばで表現できるように。

What は What for にもつながるし、

know how だけでなく、根本のビジョンや実現したいことが伝わるように。

 

昨夜、担当の教授から連絡をもらい、

今年は1, 2年合同授業だとかでおおよそ200名規模のレクチャーとか。

しかもぐるりと見渡せる階段式教室とか。

ぐえ!(驚きと喜びの声)

普段、耳の話をする機会はそんなにないけれど

ちょっとずつ場が広がってきたなあ。

しかしダンスをしているわりにシャイなので(笑)

何度人前に立っていても、

「見られる」ことに相変わらず慣れない。

慣れないながらに、

もっともっと、ステージから「見える」景色を楽しむことができればいいな、うん。

さて、今年の授業はなにを伝えよう。

その前に仕事だ、行ってきます。

 

 

 

 

 

“I love my senses”

MJ

 

昨日のことだけど、服に合わせた靴のチョイスがいまいちで、

某石田純一さんのような足元になった。

丈短め(くるぶし上)のパンツに対して、黒エナメルなおじ靴で、しかもナマ足だったからなあ。

昨日のわたしは、

いしだじゅんいちならぬ、い◯◯(わたしの名字)ゆんいちでした、

というどうでもいい報告。

靴のチョイスはやはり気が抜けないわと反省しつつも、

白靴下合わせたような謎のマイケル化は避けられたし、まあよかったよかった。(完結)

 

さて、本題。笑

ここ数日で少し自分なりに輪郭を掴みはじめた「感覚」について。

最近、なんとなく脳裏をよぎっていたことば、

“I love my senses”

本で読んだフレーズでもなく、夢に出てきたわけでもなく、

でも脳内でふと呟いて、ほっとすることば。

そしてしばらく自分なりに味わってみた、なんでこのことばが今のわたしは好きなのか。

たぶん、この1ヶ月ブログを書いてみたことにもつながっていそう。

 

そして、ちょっと見えはじめた答え。

「感じる(FEEL)」

「考える(THINK)」

「味わう(TASTE / EXPERIENCE)」

自分の中で、この3つをバランスよく保てていると、

なんだかものごとがうまく回る気がしていて。

どうやら、この、バランス感覚を大切にしたいなーという気持ちが

先の “I love my senses”というフレーズに表れていたようだなと。

自分のsense(感覚とか感受性とか)がわりと好きだし、

信じている、大事にしたい、そんな意味なんだけど。

 

ここで言う「バランス感覚を保つ」というのは、

自分の脳スイッチ(思考・感情の状態)を、

いつもよりちょっとだけ自覚しておいて、必要に応じて切り替えるということ。

たとえば、

なんとなく感じていることを、意識的にことばで表現してみる。(FEEL→THINK

このブログも、日々のFEELをことばに置き換えるというTHINKがあって生まれている。

以前取り上げたセリグマンさんの3つのよいことも、このアプローチの一種かと。

また、

ぐるぐる考えてしまうときは、今の自分の「きもち」にフォーカスしてみる。(THINK→FEEL

出来事や他者等の客体に意識があるのを、ぐっと自分という主体に引き寄せる感じ。

「なんでこの人はこう言ったんだろう?」から、

「この人の何に、わたしはどう反応している(感じている)のかな?」と置き換えるとか。

そして、ときには

感じることも考えることもやめて、ただぼーっとしてみる。(TASTE

空気を味わい、今この瞬間の自分の佇まいを味わい、

経験をつんでいる自分そのものを味わってみる。

味わうという意味の TASTEには、経験するというニュアンスも含まれているらしい(!)

 

そのときどきで、なにかを経験している自分。TASTE。

そのときどき、左脳主動で行われるTHINK、考える。

そのときどき、右脳主動で行われるFEEL、感じる。

考えすぎたら胸に手をあてて感じてみればいいし、

いっぱい感じたらそこからことばに置き換えて考えてみる。まとめてみる。

そんな風にして、脳を使いまくったら、

今度はぼーっとして、ニュートラルな自分でTASTE、ただ味わう。

このサイクルをうまく回すことが、なにに良いのかはまだ掴み切れてないのだけど、

その先につながる日々の習慣や行動を、より自分らしく実現することにもつながるんじゃないかしら。

これ、完全に自分の気づきベースでまとめているけれど、

なんか脳科学とかで扱ってそうな領域だなあ。どなたかご存知でしょうか。

茂木さんの本とかちょっと漁ってみようっと。

 

というようなことをまとめていたら、

今日会社帰りに立ち読んだ本にこんなフレーズを発見。(ニュアンスです)

 「ロジック」と「感じたこと」は、どちらか片方だけはだめ。
 ロジックだけだと行き詰まるし、感性だけだと自分の世界だけになってしまう。
 両方を高速回転させると、新しい何かが生まれてぐんぐん成長していく

ちょうど今朝、ぼんやり考えていた内容と一致して、書店でひとり興奮。

鼻息荒くしていたのでさぞかし怪しかっただろう。

そして、その本は、だから一流のアーティストや画家は、文章表現もうまいとも続けていた。

それは、片方のスキルに頼らず、感覚とロジックを往復させる習慣をもつからとも。

「往復」「高速回転」という考え方、なかなか面白そう。

ひとまず、どちらかというとTASTE & FEEL人間なわたしは、

THINKも大事にしたいので、ブログ始めたのはちょうどよかったのかな。

なんでも意味があるもんだ。

 

 

 

ゴリラになる

Strong Adult Black Gorilla

初めてのジムに行ったら、なんだか疲れたわたし。

そうだ、マッサージに行こう、と出先でふと思い立ち、

移動中の電車の中でネット検索・予約をして、いそいそと向かう。

結果は「はずれ」。

ボディとフェイシャル合わせて90分プランを予約していたのだけど、

到着直後、担当の方にお目にかかったとき、

むむむこれはもしやはずれかな、と不穏な予感がして、

施術開始10分ぐらいで、うあああはやく終わらないかなあと思う羽目に。

かんたんにいえば、技術はそこそこある方なのかもしれないけれど

肌が合わないというか。なんなんだろう、あの心地悪さ。

 

というわけで、ボディが一通り終わって、フェイシャルの施術が始まる頃には

たぶん、冒頭のゴリラのような顔をしていたわたし。

そしてすべての施術が終わる頃には、

なんだか身も心も守りすぎて、筋肉隆々のゴリラになったような気分であった。

はーー疲れた。笑

 

 

基本的に直感で生きている人間なので、

「やりたいこと」「会いたいひと」「伝えたいこと」「行きたいところ」などなど

ひらめきで選択し、ずんずん思いのままに行動していくタイプ。

だけど、そのぶんずっこけ(いわゆる失敗)もする。

しかも、今回のようなずっこけの場合、

はじめてのマッサージは、90分ではなく60分ぐらいにしとくのが無難だな!

と、失敗と思わずに適当に心的整理するので、懲りずに同じことを繰り返しがちという。

 

とりあえずまあ、見ず知らずの他人に身体をケアしてもらうよりは、

自分で自分の身体の状態を整えるほうが、

わたしの場合は、結果、きもちがいいかも。

とくにマッサージとかは、施術してくださる方との相性もあるし、

もちろん時には信頼できる方に、手が届かないところを丁寧にケアしてもらうこともありつつ、

基本的には、自分の中の軸は、自分でしっかり鍛えて、

自分の中の流れは、自分がしっかり流していけるように。

これ大事だ、うん。

ひとまず、今のわたしはちゃんとジムに通えってことだな、うん。

今回は、不意にゴリラ化してしまったけれど、

今後は、意識的に美しいゴリラになろう、うん。

 

今日のひとこと:

お代も、正直、施術の質に対して若干高めかなあと思わないでもない設定。
でも、施術してくださった方には、「いい気づきをくださってありがとうございました」の気持ちを込めて支払いを。多く取りすぎたら、その分あとでツケがくる。そういう意味で、いろいろと難しい職業なんだろうな〜と余計な思考。

 

やせの筋肉質(ただしやせ寄り)

women

食べ物のおいしい季節。

ならば、自分もおいしい身体にならなくちゃね!ぷり尻ゴーゴー!

といういつものごとくよくわからない発想で、この10月から新たなジム通い開始。

今まで、いわゆるダンス系ヨガ系プログラムしか受けたことがなく、

基本的にマシンには見向きもしない人間なのですが。

30代もたけなわ、そろそろ意識的に筋力を付けておきたいなと、

心機一転、あえてマシンしかおいていないジムに通い始めてみた。続くのか。

 

入会初日は、先ずはじめに、身体測定。

わたしは、一言でいうと「やせの筋肉質(ただしやせ寄り)」らしい。

まだちょっとは筋肉残っているのね。安堵。

マッチョなお兄さんが次から次へとマシンの使い方を説明してくれて、

お兄さんの見本動作ののち、見よう見まねでやってみる。

「そうそう、いいですね〜」(親指)(たまに両手)と、満面の笑顔で励ましてくださる。

ありがたいんだけれど、案の定、途中から飽きてくるわたし。笑

初日は大したワークアウトもせず、さっさとお風呂で羽を伸ばすの巻。

 

少し身体を動かしたあとのお風呂って本当きもちいいな〜

たぶん、お風呂目当てに続きそう。

それにしても、チェックインをした後にジムエリアに行かないで、

そのままお風呂にだけ入って帰った場合は、

その動きはフロントにばれるのかしら・・・

とか早速考えているあたりが、やっぱりなまけものなんだろう。

ひとまず、お兄さんと「やせの筋肉質(筋肉質寄り)」を目指して

1ヶ月後だったか3ヶ月後だったかをめどに、今より5%筋肉量を増やす

ことになったので、有言実行、がんばります。

 

今日のひとこと:

ぷり尻って、英語でなんて言うのかなあ。
(めずらしく、本当にひとこと。)

まどさんとリンゴとわたし

water droplets on green leaf

思えば、小説家で、特に好きな方というのはいないのだけど、

詩人のまどみちおさんは、小さいときからかなり好き。

一時期、谷川俊太郎さんと若干混同していたことはナイショである。

まどさんの作品で、次のような詩(うた)がある。

 

リンゴ

まど みちお

 

リンゴ
リンゴを ひとつ
ここに おくと
 
リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ
 
リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない
 
ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 

わたしの個人的な感覚なのだけれど、まどさんの数々の作品は

「世界を 切り取る」

というよりは、

「世界を 抱きしめるように祈るように見つめる」

その結果、生まれ出てきたもののように思えて、

そのどれにも、まどさんの深い愛情と畏敬の念を感じる。

 

「あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」

という響きに、わたしたちはリンゴの輪郭をくっきりと感じられる。

ものがそこに「ある」ということは、

ものが作り出している輪郭の外側には、それはもう「ない」ということ。

わたしがそこに「いる」ということは、

わたしの身体が作り出す輪郭の外側には、わたしはもはや「いない」ということ。

それぞれの存在のかけがえのなさ、貴さのゆえん。

 

今朝。

いつものようにぼんやりと起きて、ぼんやりと太陽の光を浴びて、

ぼんやりと鏡に向かいながら、ぼんやりとなにやら考えていた。

わたしはいつも、起きてから洗面と身支度を済ませるまでは、補聴器を付けていない。

(これについては、脳が起きてないから、まだ外界の刺激を受けたくないがゆえのわたしなりの習慣なんだろうな〜というゆるい自己分析。)

 

そして、ふと思い至る。

補聴器を付けていないときって、頭の中でなにか考えていると、

やがて、ことばがぐるぐると身体の中を縦横無尽に駆けめぐっていく。

それが、

そのあとに補聴器を付けた途端、

たとえば台所の、母がトントンと使う包丁の音とか、

目の前でトプトプと流れる洗面台の水の音とか、

後ろでゴーゴーまわる洗濯機の音とか、

外側から一気に、きこえにくい耳なりにさまざまな音が入ってくる。

いろんな音やことばが、自分の中に一気になだれ込んでくる。

面白いもので、このとき、

補聴器を付けるまでは、内界だけでゆらゆら漂っていた自分が、

補聴器を付けることで、聞こえてくる音やことばによって、

外の世界と自分が「つながる」

そんな感覚がはっきりとある。

 

内界でぐるぐる回っていた声にならないことばが

するりと自分の外に出て、

外界でくるくる舞っていた音たちが

ゆるりと自分の中に入ってくる。

そんな感じ。

それまでは、自分より内側の輪郭を味わっていたのが、

自分と外の世界の輪郭を突きつけられて、目が覚めていく。

そんな感じ。

 

まどさんが詠んだリンゴの輪郭と、

きこえないわたしが、毎朝ふと感じるわたしの輪郭。

 

今日のひとこと:

幼い頃からなんとなく感じていた感覚が、ふと腑に落ちたそんな朝だった。

なんだかうれしくて心ここにあらずだったからか、着ていた洋服の上が横じま、下が縦じまというわけわからない組み合わせになったのでした。みなさん気づいていませんように。笑