月別アーカイブ: 2015年10月

仕込みの時期

 

Woman kneading dough, close-up photo
毎朝、仕事を始めるときのわたし。

先ず、その日いちにちの予定とタスクリストをざっと眺める。

そして、

今日はコミュニケーション中心の日(打ち合わせ三昧)

今日はアウトプットの日(イベント対応)

今日は考えをまとめる日(資料作成、データ分析)

今日は仕込みの日(アポ取り、情報収集)

といった具合に、自分なりの「今日力を入れるテーマ」を立てる。

やりたいテーマが見えてくる。

そしてそのテーマを頭のどこかに置いて、今やるべきことにせっせと臨む。

ただ漫然と雑然とタスクをこなすのではなく、

意思をもって、その日の仕事を自分なりにかたちづくる感じ。

もちろんテーマとは毛色の違う内容のことをこなす場面もあるけれど、

大きなテーマを持っていると「あ、これもやっておきたい」「それならこの人と話してみようか」と、「やりたい」がむくむく湧いてきて、アイディアやその後のアクションに広がりが出る気がしている。

 

それは気がつけばいつの間にか、そういう習慣になっていたような。

ていうか、今書きながら、そんな感覚を持っていることを改めて意識した。

修学のためにお休みをもらう前も、この感覚はあったかなあ? うーん思い出せない。

 

そして、この、

自分なりの「テーマ」をなんとなく決めて過ごすアプローチ、

仕事だけでなく日常生活全般にも応用がきくし、

日単位だけでなく週、月、季節、年単位でも自由自在。

たとえば、ひとり暮らしをしていた時期、

毎日の家事(おもに掃除)をもう少し楽しくしたいな〜と思って、自分なりに決めていたっけ。

火曜日はコンロまわりとか、水曜は水まわりとか、木曜は植木含むベランダ関連、

金曜は金運アップといわれるトイレ掃除、土曜日は床掃除、だったかな。

ちなみに、なんで月曜ではなく火曜日から書いてるのかというと、

月曜日の家事テーマを忘れたから。月曜は週休だったかな?(適当)

そうすると日曜はなんだろう、週休二日かな?(好待遇)

 

こんな感じで、自分が意思をもってその日そのときに込める「テーマ」もあれば、

一方で、年単位の長いスパンで、自分が自然と向き合う「テーマ」もある気がする。

向き合うというか、向き合わされるというか。

たとえば、今のわたしはなんとなくなんだけど、仕込みの時期。

ちょっと前までは、静かに味わう時期。

その前は、じっと佇む時期。

身を置くというか、そういう状況に置かれるというか。

流れに身を委ねていると、自然と「今の自分のテーマはこれかも」と見えてくる。

最終的にそう決めるのは、自分なんだけど。

 

20代は、大好きなダンスばかりやっていたこともあって、

毎日がある種エンタテインメントだったし、刺激的刹那的な日々だったけれど、

30代真っ盛りにもなると、もう少し長い目で、ゆるやかな時間軸で、

日々や年月を捉えられるようになったのかもしれないなあと。

仕込みの時期。

具体的に何を目標にせっせと取り組むというわけではなく、

どこかで待っている何かに向かって、

今の自分が直感的にいいな大切にしたいなと思うことをゆるゆる動いている感覚。

このブログもその1つかも。

そして、それはきっと明るい何かに向かうんだろうなー

まだ確信めいたものもなくどきどきまではいかないけれど、なんだかわくわくする。

 

今日のひとこと:

仕込むというテーマで、なんとなく、この生地こね画像を選んでみたけれど、
よくよく手元をみると、指先が赤くてちょっと不気味。。
こういうのにも「こわっ」と一瞬たじろぐぐらいにはこわがりなわたし。
こわがりなのって、どうすれば治るんだろうか。わりと真剣です。笑

季節がすすむ

明日は少し冷えるというので、

何を着ていこうかと、ぼんやり思案中。

こうやって季節はすすんでいくんだなあ。

すすむ時間と、そのあいだに佇む自分をいつもよりも感じる季節、

それがわたしにとっての、秋。

 

今みたいに冷暖房やホッカイロにも頼れなかったような時代、

むかしのひとは、今よりもっと季節の移ろいに敏感だっただろうなとふと思う。

すすみゆく季節に思いを馳せて、

暦に指折り数えながら、

くる日々に淡々と備えつつ、

いまこの瞬間の空気のにおいをじっくりと味わう。

そういう営みが、行われていたんだろうなきっと。

 

自然のにおいを、昔ほどは感じられない現在(いま)だけれど、

自分の人生や仕事のみらいに意識を張るだけではなく、

連綿と続く歴史のなかで古人が大切にしてきた、

暦に根ざした季節や自然の移ろいを愛でながら、

日本や世界や地球に足を踏みしめて生きることに感謝する。

そんな感覚を忘れずに、毎日を過ごせたらいいな。

 

たとえばこれからだったら、

ストールや手袋、ブーツを買うにしても装うにしても、

素材やそのあたたかさにもほんのり喜びをおぼえながら選び、使えたら。

その昔、原始人が毛皮の保温効果を発見して愛用したときのきもちみたいな。

まあこれは、すこし極端な発想かもしれないけれど。(少しどころかだいぶ…)

人間らしく、はたまた人類らしく(笑)過ごせたら、

毎日がもっと彩り豊かになりそう。

 

今日のひとこと:

父が持っている俳句帳を覗いてみたら、巻末に季語集があり読み入る。

「月」というだけで、秋の季語になるらしい。なーるほど。

他生の縁

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謎のマイブーム到来。

「今、何にはまっているの?」と訊かれたら、きっと答えはこれかな。

「グリーン車」

・・・なんでだ。

仕事終わりにふらっとグリーン車に座ると、自由席とはまたちがう景色が。

座席やフットレストといったしつらえもそうなのだけど、決定的に変わるのはまわりの乗客。

 

無造作に脱いだ背広の襟に、キラリと光るバッジを付けている弁護士?代議士?なおじさま。

美味しそうな日本酒一升瓶の箱を、なぜか直に床に並べてご満悦なおじさま。

収納机に背を屈めて、一生懸命大量の領収書とにらめっこするおじさま。

全体的に、北大路欣也か谷村新司か笹野高史の度合いが強い空間である。ニュアンス。

 

一応、マイルールとして、仕事を100%全力で頑張った日に利用しよう、

ということにしたのだけど、いつだって自己評価100%人間なので

ふと思い立って乗った先週以来、けっこうな高頻度で利用している。笑

 

いつものごとく、いつまで続くかわからないブームだけれど、

同じ道中なのに、ちょっと車両を変えるだけで見える「世界」「空間」「道」が

こんなに変わってくるのか〜と楽しんでおります。

おもに、ディープなおじさまの世界。

 

来週からは、「仕事120%ルール」にアップデートしてみるか。

 

今日のひとこと:

なんとなく脳裏をよぎる、「袖ふり合うも他生の縁」ということば。
個人的には「他生」表記が心地よいな〜と思いきや、ぐぐってみたら「多生の縁」のがより意味に適っている様子。どんなご縁も偶然ではなく、昔からの深い因縁(=多生)があってそうなっているという考え方。なーるほど。

自分の人生、他人の人生。
ちょっとだけすれ違う空間、ちょっとだけご一緒する時間。
与えられたご縁、つくっていくご縁。

声を「聴いた」日 ’15

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嬉しいことに、この歳になってもまだまだ知らないことはたくさんあって。

今年も残り3ヶ月か、はやいなあ〜としんみりしながら、

2015年になってこれまでの間に、わたしがはじめて知った/気づいたことで

いちばん感動したのはなんだっけ、としばし思いを馳せてみた。

たぶん、あれ。(何)

ていうか、それ。(何だろう)

もう、これ。(だから何)

 

それは、「ひとのからだは、楽器である」という捉え方。

 

幼少期から15歳頃までピアノを習っていたわたし。

音を聞き分けることは難しいので、どちらかというと「響き」を感じながら演奏する。

とはいえ、ピアノを本格的に弾いていたのはもうだいぶ前のこと。

ダンスをやっていて、そのときも音楽ではなく「響き」や周囲の「動き」をベースに踊っていたけれど、それもすこし前のこと。

 

そんな最近、ボイストレーニングを教わる機会があり、

自分がどの音階の「声」を出しているかを、はじめは先生のピアノ演奏のもとで確認。

でも、ピアノを習っていた話になり、もしかしたら、わたしが自分でピアノの鍵盤を弾きながら、「声」を確認する方がより感じやすいかもね、と先生。

久しぶりにピアノの前に座り、まずは右手をピアノの鍵盤のうえに乗せ、静かに押す。

 

ぽーーーーん

 

指先に、ピアノ独特の心地よい響きが伝わる。

そして、右手でピアノの鍵盤をゆっくり叩きながら、左手をのどの声帯あたりにあててみる。

 

ぽーーーーん と右手指先に響くピアノの音。

あーーーーー と左手のひらに響くわたしの声。

 

そうして、ドー、レー、ミー、とピアノで音階を追いながら、声の響き具合もたどっていく。

わたしの場合、「音」で違いをとることはできないけれど、手に伝わるピアノの音階と自分の発する声の「響き」「波長」の違いを感じ取ることはできる。

「音」探しならぬ、「響き」「波長」を丹念に合わせていく作業。

昔、こうやって喉に手をあてて、声を出すことを少しずつ覚えたっけと思わず懐かしくなる。

 

すると、わたしの様子を横で見ていた先生がふと「今度、体にそえる手は、手のひらでなく指先にしてみましょうか」とおっしゃる。

手のひらより、指先のほうが皮膚が薄くてより感じやすいはずだから、とのこと。

あと、触れるのは、喉ではなく、鎖骨の下付近でよいかも、とも。

胸のあたりに指先を添え直しながら、もう一度、声を出してみる。

 

やがて。

指先に、静かに、でもはっきりと伝わる、自分の生の声の響き。

震えとも振動ともつかない響き、これを「声」というのだろうか。

ピアノの響きといっしょに、自分の声を触ってみた瞬間。

それは一瞬のことだったのに、言語訓練を受ける小さいわたしがついこの前までそのへんにいたかのような不思議な錯覚だった。

小さい時に言語訓練で一生懸命探した「声」とはまたちがう、音色のある「声」を感じられた気もした。

 

「うわー、響いてます!はっきり感じられますね!」と興奮気味のわたしに、

「そうそう、わたしたちのからだは、楽器ですからね!」と笑顔で応じてくださる先生。

そうか、わたしは楽器なんだ、とうれしくなる。

わたしのからだをどう響かせるかで、そこから発される声も歌もまるで変わってくる。

うれしくなって、ついでになんだか泣きたくもなる。

声に感謝、ことばに感謝、からだに感謝。

 

今日のひとこと:

それにしても、すごいことをさらりと伝えてくださる先生、すごい。
何歳になっても、こういううれしい出会いがたくさん。たぶんこれからもたくさん。(皮算用)

2015年の終わりには、また何か、新しい学びや気づきを得られているかな〜
そうだといいな〜(仰向け大の字になりながら)