月別アーカイブ: 2016年2月

うるう日の夜に

tanpopo

2月29日。

なんてことない1日だったけど、

昨年も、来年も、この日は無いわけで。

なんかトクした気分!

ごちそうさまでした。(合掌)

 

まもなく、復職して丸2年を迎えるわたし。

言い換えれば、2年前の今頃は学生だった。

学内での最終研究成果報告会も終えて、

卒業(修了)式に向けて袴の試着なぞに

いそしんでいたような。

 

不思議なもので、同じ季節の同じ月日なのに

年を違えるだけでこんなにも過ごし方が違うわけで。

一旦、職務を離れて、

学業に専念する

という選択とその経験をさせていただいたことで、

月並みだけど、

人生の歩み方って、自分の選択次第でいくらでも可能性が広がるんだということを思い出した。

 

研究生活は、

授業やゼミも時たまあるけれど、

単位取得したあとの修論執筆中は、おもに、机か本か先生から戻ってきた赤ペンかに向き合う日々であった。

割りと孤独な、自分との闘い。

どんな結論を導くか、どんな成果を出すか、

すべて自分次第で決まる。

そう、自分との闘い。(二度目)

 

なので、修学中には、

「そっか、チームでアウトプットを出す仕事生活って、なんだかんだ楽しいんだな!」

という気づきを、今更ながら得られたりもして。

 

そして卒業して2年が経ったいま、感じるのは、

あの季節、自分との闘いを、

たしかに楽しんでいる自分もいたんだということ。

 

当時、闘うことは、楽しむ余裕もなくけっこう苦しかったのだけど、

誰のためでもなく、自分のために生きた日々。

自分との闘いは、自分への挑戦でもあった。

 

2年経って、

ようやく、当時の自分自身に心から

「お疲れ様、よくやったね〜(肩ぽん)」

と声をかけられる心境に。

「ほら、チャレンジしてみてよかったじゃん!(背中ぽん)」的な。

なんだろうなあ、この感覚。

ひとまず、今また何か違う心境というかステージを迎えたことで、その「むかし」を振り返り、ようやく受けとめることができたのかなあって。

 

人生は、常に連続性をもつもの。

出逢いと、経験と、自己実現への連なりの総合体。

無駄な日はなく、鼓動を打った分だけわたしたちは脈々と生きているんだね。

うるう年のうるう日の夜。

たまにはそんな、とりとめのないことを思ってみる夜。

 

West Side Story

jumping

土曜日は、休日出勤、のち、ミュージカルへ。

劇団四季で、2月14日から開演した「West Side Story」を鑑賞。

楽しかった!

エキサイトした!

 

舞台はやっぱりいいなあ。

キャストの皆さんがステージを縦横無尽に自由自在に駆け回り、

その空間いっぱいに大きくパフォーマンスを広げてみせる姿。

とてもきもちよかった。

その昔、自分がステージに立つ側だった時代がなつかしい。笑

 

この演目を観に行くことになったきっかけは、ささいなこと。

もともと積極的に計画していたわけではなく、

お正月休みに、

好きなアーティストさんの舞台も最近ないなあ〜

何か面白そうなのがないかなあ〜

とぼんやり思案しており。

そして、

新聞かなにかで目に入った West Side Storyの文字に「おっ」と心が反応。

さっそく四季のホームページで残席をアクセスしてみたら、

ちょうど自分の誕生日の席番号だけが残っている。

「あーこりゃ決まりだわ」とそのまま予約手続きへ。

 

いまの時期は、休日に仕事をする場面も多いし、

昨年までのわたしだったら、

行きたいけど無理だな〜

となんとなく消極的に見送っていたと思う。

でも、

とりあえずまあいっか。

観たいんだものまあいっか。

で予定を入れてみたら、思いがけず目と心を潤わせてもらった。ありがたや。

 

さっき少し書いたように、わたしはその昔ステージに立っていた。

あるときは、大学構内の、小さなステージ。

あるときは、神戸かどっかの、大きなホール。

あるときは、東京のどこかの、文化センターみたいなところ。

あるときは、友人の結婚披露宴会場にも出没。笑

 

大学のダンス部の定例公演で、

このWest Side Storyの演目を踊ったことも。

スカートも、みんな色違いで作ったんだよなたしか。

なんとも恥ずかしすぎる、なつかしすぎる。

もちろんプロの舞台には程遠いレベルだけど、とことん楽しかった。

踊ることが大好きで、もちろん上手に見せられる(魅せられる)ようになりたいというのが日々の練習の動力でもあったけど、いま振り返ってみると、自分の中の感情だったりエネルギーを身体いっぱいに使うことがきもちよかったしやみつきだったんだなと。

 

首をぶんぶん振って、

腕をぐいぐい動かして、

腰をくいくい回して、

脚をえいやっと踏ん張って、

顔をくっと見据える。

自分がどう動くと、身体はどう動き、観客からどう見えるのか。

自分がなにを表現し、身体でなにを伝え、観客になにを残すのか。

結果を出すためには、プロセスにとことんこだわる。

プロセスにとことんこだわれば、結果は必ずついてくる。

 

踊ることは、身体を知ること。

踊ることは、内なるエネルギーを外に出すこと。

踊ることは、生きること。

ふらりと観に行ったミュージカルに、いろんなこと思い出させてもらった土曜の夜でした。まる。

 

わらしべ長者

boy

うっはっはっは。

 

思わずアテレコしてしまいたくなる、愉快な表情。

 

うはうはうはははは(はあと)

 

これもいけるかな。

 

さて。

ここ数日、妙に気に入っていることば。

 

「わらしべ長者」

 

元はといえば、先週のバレンタインデーにちなんで

お世話になっている方々へ(なぜか)おもちなどふるまってみたら、

帰りには、元気なカブを抱えて帰ることになった、

という、

ごく最近の経験が発端なのだけど。

 

わりに重かった餅が、

ずっしりとした重さはそのままに、

思いがけず新鮮で美味しいカブに様変わり。

そのとき、「あ、わらしべ長者だこれ」という気づきを得たのでした。

 

昔、読んだ、日本むかしばなし。

わらしべ長者も、好きな話の1つだった。

 

よくよく考えてみると、わたしたちはみんなわらしべ長者なのだ。

ものでもことばでも、

何かしら相手に預け、託し、授ける。

そうすると、

ものなのかことばなのか、はたまた思いなのか、

何かしらが与えられ、託され、受け取る。

それは、必ずしも目の前の相手からすぐに戻ってこないこともある。

めぐりめぐって、まったく違う人から違う形になって返ってくることもある。

 

面白いのは、

期待すれば期待したなりに見返りがあるけれど、

期待せずにどんどん与える/ふるまうことをしているほうが、

あとになって、どかーんと気持ちいいギフトが入ってくるような。

それは

もののときもあるし、

ことばでいただくこともあるし、

はたまた

新たな人生を開くのに必要な、幸せな気づきや発見であったり。

 

わらしべ長者。

わらを握りしめたまま、そのまま寝ることもできるわけで。

でも一歩、外に出て何かふらりと行動してみることで

わらが何かに変わる。

行動することは、新たな風を起こすこと。

行動することは、豊かさを生み出すこと。

 

今日のひとこと:

修学から復職以来、職場の様相のあまりの変化に(メンバーも組織体制も)、自分は「浦島太郎」だと感じていたけど、ようやく物語は新たなフェーズに入ったもよう。笑

 

こんな私でいい。

panda

ちまたの、オシャレなブログみたく、

セクシーで可愛い女の子の写真でも使おうかと思いつつ、

毎度こういうのに落ち着く。

かわいいねパンダ。

うれしそうパンダ。

 

今がいい、今でいい。

私がいい、私でいい。

こんな今がいい、こんな今でいい。

こんな私がいい、こんな私でいい。

 

『人を好きになるには、まず自分を好きになる』

『周囲のひとを大切にできるのは、自分を大切にできているひと』

とか耳にすると、

まあそりゃそうだよな〜と思いつつ、

どこかで、

いや、なんかそれめんどくさいわ(大の字)

とひっくり返りたくなる。

 

いまのわたしは、

べつに、自分のことを好きになれなくていいと思う。

もともと好きならそれでいいけど、

なんか好きでないなら、それは無理して好きになる必要はない。

 

1年前のわたしは、

やっぱり、ひとは、自分のことは好きにならないとと思っていた人間だけど。

でもぶっちゃけ、なんか、自分のこと好きになれないならそれはそれでいいかもね、と思える今のほうが、本音で生きられるようになってきたような。

うん、べつに、自分のこと大好きにならなくてもいい。

わたし自身、

5年前のいまと比べると、

もう自分のこと大好き!ついでにまわりも好き!

とは思えなくなってるんだけど

ふしぎと、自分のことを無条件に好きではない今のほうが、気持ちが山のように落ち着いている。笑

好きでない自分の一部も抱えながら、でもやっぱりけっこう好きかもな、ぐらいの淡々とした感覚が不思議と心地よいというか。

 

へんなたとえで申し訳ないけど、

好きでないナスを、『美味しい!』と偽って食べる必要はない。

小学生の頃、

うーん好きになれないなあと思いながら、

それでも母が大好物なので、食卓に並び続けるナス。

昨日見たばかりなのに、また会ってしまうナス。

笑いながら、でも割と本気で、もう見たくない〜と思うぐらいには苦手に。笑

そうして月日は流れ。

ある日、身体に異変が。

それは、「ナス、食べたい」という欲求。

ええええなんでだ。

戸惑いながら、食べてみると、たしかに美味しい。

食べたくなる日が突然くる。

キライを克服したのではなく、

スキな気持ちが、苦手を上回る瞬間がある。

 

ナスに限らず、自分のことについてもきっと同じ。

好きになれないなあと思いつつ、

好きになろうとするのは苦しい。

自分が苦手なことがあって、うまく出来ないときも同じ。

うまくやれないなあと思いつつ、

なんとかしようと頑張るのは苦しい。

 

なぜ苦しいか?

それは、

「できない」「やれない」というきもちと、

「ならなきゃ」「やらなきゃ」というきもちを、

同時に回しているから。

 

だから、いっぺん、預ける。

「やっぱりナス、そんなに美味しいと思えないよねうん」

と割り切ったように、

「ああそうか、わたしは自分のこういうところ好きになれないんだな。了解。」

「うん、自分のこういう態度、どうにかしたいと思っているんだな。おっけー。」

「できない」「やれない」、そんなきもちをいっぺん受けとめて、了解!オッケー!としてみる。

預ける、といったけど、

諦める、観念する、という感じにも近いかもしれない。

ナス、無理だわ、と静かに箸を置いたときのように。笑

開き直り、ともいえるのかな。

 

そうして、

「じゃあ、どうしようか」

「さて、なにしよっか」

そんな感じで、次の行動に目を向けてみる。

感情をいっぺん受けとめているから、

懲りない自分を楽しむ感覚に変わるというか。

 

まずは、浮かんだ感情を素直に広げ、見つめ、受けとめ。

一呼吸おいて、

なにができるかな、と見渡してみる。

もちろん、

感情を認めるのに時間がかかることもあるだろう。

しばらくはうずくまってたっていい。

むりして、手を伸ばす必要もない。

でも、いつか立って、歩きたくなるときはかならずくるから。

 

「なんだ、こんな私でいいんだな」

そう思えると、そんな自分に、素直に『ありがとう』と言いたくなるから不思議だねえ。

 

今日のひとこと:

この、感情を認めるお手伝いをするのがカウンセリング、

立って歩きたくなるお手伝いをするのがコーチング、

そういうことなのかなあと、今なんとなく少し掴めたような。

 

 

可愛いアイコンタクト

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新幹線ホームにて。

ホーム脇の扉乗降位置に立って、このあと乗る予定のくだりの電車をのんびり待つ。

ちょっと冷え込む夜だったので、片手にホットココアを握り、ストールに顔を埋めながら。

しばらくすると、向かい側のホームに、のぼり方向の列車が流れ込んできた。

ぼんやりと、その車体と、車窓越しに見える乗客たちを眺めるわたし。

停車に向けて、次第にスピードを緩める列車。

 

すると、

車窓に張り付いて外を見ている、ひとりの女の子と目が合った。

小学一年生ぐらいかな、お下げ髪。

窓ガラスにそえられた手はまだ小さいけど、ピンク色で柔らかそう。

一瞬のアイコンタクトに、気のせいかなあと思いつつも、楽しそうに駅の様子を眺める姿がかわいくて、思わず目と口がにんまりしてしまうわたし。

それが分かったのか、窓向こうの女の子も、心なしかわたしに視線を置いている。

左から右に流れるその列車と車窓の女の子の動きに合わせて、なんとなくにんまりしたまま、わたしの視線も左から右に。

にこにこと目を合わせながら、でも遠ざかるふたり。笑

女の子は体を斜めにして窓外をのぞきこみながら、ホームにいるわたしにそのまま茶目っ気たっぷりの視線を送ってくれ、でもやがて見えなくなった。

 

時間にすると、ほんの10秒かそれぐらいのできごとなんだろう。

でもなんだか、可愛いお友だちができたような気がして、心がほっこりした。

ことばが交わせなくても、目だけで交わせるコミュニケーション。

『あ!』

『うふふふこんにちは』

『あ〜(流れる)』

『げんきでね』

ことばにすれば、こんな感じなのかな。

可愛い出会いに感謝。

人生、一期一会。

 

うれしはずかし化学反応


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ここのところ、なんとも言えない仕事量に閉口中。

日夜だまって仕事、せっせっせー(民謡)

 

そんな折、うれしいお便りをいただく。

秋に、特別講師として登壇した授業の学生さんたちの最終レポート。

トータル405枚!

肢体不自由の方のバリアフリー、

視覚障がい者のバリアフリー、

そして聴覚障がい者のバリアフリー。

「もの」や「情報」など対象はさまざまだけど、

生活に役立つデザインを勉強されている方たち。

そんな彼らが、後期の講義を通じて学んだことをもとに、上記3テーマから1つ選び、自分のアイディアをまとめたレポートを担当の先生が共有してくださったのだけど、もうもう圧巻だった。もうもう。(牛)

 

マツコデラックス、マスクの人、車内放送、朝はスマホのバイブで起きる、仕事の会議、沖縄旅行のガイドさん、音楽をきく、、

わたしが耳がきこえない当事者として、授業のなかでなにげなく伝えたこれらのキーワード。

一部、意味不明のもあるけど。

あれからまだ2ヶ月ぐらい。

でも、学生さんたちのなかで、たしかに化学反応は起こっていた。

「こんな場面で不自由を感じてます」といった大小さまざまな不便から、「きこえないけど、けっこうこれ好きなんです」という、制限はあるものの自分なりに楽しんでいることまで。

聴覚障がいの不自由さはコミュニケーションに端を発するものが多いし、目に見えないハンディキャップだからどこまで伝わるだろうか、と半ば願いながら伝えたことを、ちゃんと受けとめてくれていて。

「もっときこえない人も音楽をたのしめるように」

「こんな場面での補助になれば」

「こうやって関わることが、支援につながるかも」

と一人ひとり、一生懸命考えてまとめてくれた感じが伝わってきて、胸が熱くなった。

 

なにげなく伝えたことが、思いがけない反応になって返ってきて。

ひいては、この中から将来実用化されたり、社会的政策の支援のヒントになったり、そういう新たな反応につながるものもあるかもしれない。

うれしはずかし、化学反応。

いつもは、社員のみなさんが化学反応が起こせるような「場」をつくり周辺からサポートする立場なのだけど、今回は思いがけず化学反応を起こすきっかけを直接授ける立場にもなれる自分に気づかせてもらった。ありがとうございます。

レクチャーはわたしも楽しかったからなあ。

自分がわくわくするものは、そのあと生み出すエネルギーもやっぱり大きいのかなあ。

うれしたのしい、化学反応。