
前回のつづき。
書かなかった期間に見えてきたこと。
それは、
わたしという人間は、
「あたまのことば」ではなく、
「こころのことば」を綴りたい伝えたいんだということ。
わたしたちは、普段の生活の中で無意識に考えている。
考えるということは、脳内で言語化をしているともいえる。
『今日の夕飯、なんにしよう』
『あの人はさっき、何を伝えようとしていたのかなあ』
『そうだ、あれやっておかないといけなかった〜』
ひらめき、思索し、行動する。
わたしたちは、日々、その反応を、何百回何千回と積み重ねている。
なんだか何も書く気になれなくなっていた、6月のある週末。
部屋の書類の整理をしていたら出てきた、
自分の中高時代の原稿やら、
エッセイ作品が掲載された冊子やら。
どれどれと読み進めてみると、なかなか面白い。(自画自賛)
なんていうか狙わず、てらわず、感じるままにことばに出してる感じ。
(ああ、語彙力ない。笑)
「あたま」で考えて練っているというよりは、
「こころ」で感じたことをまずことばにして出してみて、
そのあと、文章を推敲している。
噛み砕いてみると、そんな感じなのかな、うん。
たとえば読書感想文。
当時中学生のわたしが、本を読んで心動かされたことを思うがままに。
たとえばホームステイ体験記。
当時高校生のわたしが、夏休みにカリフォルニアに滞在して、自分の目で見て聞いて実感したことをそのままに。
文字にしたら取るに足りないことなのだけれど、
今読んでもその当時の思いが伝わってきて、鮮やかによみがえって。
実際、当時、まずは原稿用紙にきもちを書き出して、
それを声に出して読み上げて、より自分の心情に添うことばに近づけていた。
日本語も英語も同じやり方で。
「ああそうだったよなあ、文にするってこういうことだった」
と、忘れていた原点に揺り戻された。
20代ぐらいからなのだろうか。
論文であったり、ビジネスメールだったり、
書くという行為にあたって、まず
導き出すべきことや、おさえるべき考え方や、伝えなくてはいけないことを
意識する機会が増えて。
それは書くことに限らず、その他なにかしら伝えるどの場面でも同様だったと思う。
書くために、言うために、なにかしらのことばをいつもあたまの中に貯めて備えている感じ。
とくに仕事を始めてからは、
あたまの中に絶えずなんらかのことばを持っていて、
いつしか発する言葉も「あたまのことば」になっていたと思う。
感覚(右脳)ではなく判断(左脳)寄りのアウトプット。
もちろん仕事をするうえで、考えたり判断することは欠かせない習慣なのだけれど。
でももっと、同時に、
「こころのことば」も忘れない自分でいたいし、
個人としてなにかを表現する場面では、「こころのことば」で書ける自分でありたい。
そんな自分の真の欲求が、
「書きたくない」という突然の拒否感になって表れたんだなと。
別に論文を書きたくないとか、ビジネスメール飽きたとかではなく、
普段の過ごし方において、
常にあたまの中に、ことばをめぐらせることをやめたい、
突きつめるとそういうことなのだと思う。
ぐるぐる考えずに、フラットな自分でいることを意識する。
Googleなどで推奨されている、マインドフルネスもこの領域を目指しているのだなあと今更ながらに納得。
月も変わったことだし、考えるのをやめる練習、ちょっと続けてみよう。
ふと見つけたこのサイトにヒントを得て、試しにここ1週間ほどしてみてるけど
【→東洋経済オンライン「心が強いひとは「ムダな考え」を消している」】
なかなか難しいしたのしい。
そして、
「あたまのことば」を淘汰しているからか、
ひょんなことからきこえてくる「こころのことば」、
たとえば、
『これはなんかよさそうな気がする・・・』
『わー、やってみたい』
『そういうことか、なるほど』
が、よりはっきり胸に飛び込んできて面白い。
ひとの「あたま」と「こころ」、そして「ことば」。
やっぱり深いね。
さいごにひとこと:
書きたくないという謎の衝動に「なんだこりゃ」状態だったけど、
「まーなんかあるんだろう」と無理せずに放置してみて、
結果、
自分のなかの葛藤とか素直な欲求に、
いま気づくことができてよかった。まる。