月別アーカイブ: 2016年7月

つなぐ記憶、つむぐ記憶

sunflowers

小さい頃のこと。

「好きな花はなに?」という質問に、

「ひまわり」と答えていたわたし。

 

どうしてひまわりが好きなのかなんて、

あまり深く考えたこともなかったのだけど。

 

そっか、

だからわたしはひまわりが好きなんだ、

とその理由に気づいたのは、小学6年生のとき。

 

きっかけは、中学受験。

学科試験と面接試験があり、

面接でお目にかかったシスターにこう訊かれた。

「あなたの好きな花と、その理由を教えてください」。

 

当時のわたしはいつもの通りに、

「わたしの好きな花は、ひまわりです」

とまず答え、そして、こう続けた。

 

「好きな理由は、茎が太くまっすぐ伸びているからです。ひまわりを見ていると、わたしもこんな風に芯が通った人になりたいなと思います」

答えながら、

どこかで冷静に「あー、だからなんだ」と小学生ながらに納得していたのを、ついこのあいだのことのように思い出す。

しかし、花ではなくて、茎に注目するあたり、

やっぱり昔からあまり変わってないなー。

ほんのちょっと、他の人と見る場所が違うところ。

たとえば春の桜も、花も好きだけど、葉桜も大好きだし。

 

あれからウン十年。(笑)

相変わらずひまわりが好きで、

街中でひまわりを見かけると思わずにっこりしてしまう。

にっこりというよりは、にやりに近いかもだけど。(怪しい)

 

以前このブログでも書いた、

秋の冷え込む日に一生懸命咲いていた

会社近くの区立駐輪場の一角のいのち。

 

あの日のひまわりはもういないけど、

今は同じ場所に次のいのちがすくすく育っていて、

これから咲き頃を迎えそう。

 

さようならと、はじめまして、こんにちは。

わたしたちのなにげない生活は、たくさんのやさしいいのちに彩られ支えられているんだなあとつくづく。

 

腹八分目とは。(悩)

green bristlegrass

 

ただいま、腹八分目キャンペーン中。

・・・

・・・

・・・

腹八分目って、ナニ?(片言)

 

基本的に、

時間があればいくらでも食べていたいし

こと好きなものなら一日中食べていられるし

実際にそうしてじんましん出して医者にかかったこともある人間なので、

(たとえばたまごとかたまごとかたまごとか以下略)

 

気がつけばもう何年も、

「腹八分目」なることばと無縁であったよ。

だから、

なんとなく

腹八分目キャンペーンを始めてみたはいいけど、

腹八分目がわからない!!という苦悩。笑

 

ただいま、

暦の上では土用で、

二十四節気でいう大暑(たいしょ)の時季。

この土用を過ぎた8月7日前後には、立秋を迎える。

 

夏の陽から冬の陰に向けてシフトするこの期間は、

思っている以上に、身体に負担が大きいらしい。

そして、夏の疲れがでて

お腹に炎症が起きやすいので労った方がいい、

そんなタイミングでもあるらしい。

(村上百代著「二十四節気に合わせ心と体を美しく整える」参照)

 

相変わらず、満腹になるまで食べてるけど、

まあしばらくは、

思い立ったが吉日だし

よくわからないなりに「腹八分目」心がけてみます。

よく噛めばいいんだなきっと。(適当)

 

街を歩いていると、

道の傍らに猫じゃらしがそよいでいて、

「あっ、こんなところに秋の気配」とうれしくなったここ一週間。

 

からだと、自然と、こよみ。

夏まっさかりだけど、どこか秋。

そんなことを感じながら、7月終わりの週の始まり。

 

たぶん、もう足さなくていい。

yoyo

今夏の目標、何にしよう。

 

スイカを思いっきり割る?

カルピスソーダの一気飲み?

枝豆飽きるまで食べる?

目標というか、ただの欲望だな。笑

 

とりあえず、

なぜか小さい時から水ヨーヨーが大好き人間なので、

お祭りで気に入った色柄のひとつを見つけたら、

気の済むまで、手のひらでポカスカ突きたい。

あーーはやく突きたい。笑

 

さて。

 

最近、ぼんやりと感じていることがある。

育つこと、成長すること、一人前になること。

また、それを支援することに関して。

 

一般に、

学校教育や、入社後の職業人教育は、

育むべきスキルやその将来像を整理して、

現状と比較してそのギャップを自覚させ、

不足している能力や、達成すべき姿に向けて研鑽する、

というアプローチが多い傾向にあると思う。

(もちろんそうではない視点と、その施策もあるけれど。)

 

2002年来、人材育成や人材開発の仕事を手がけてきたわたしだけど、

ここ数年は、担当している施策上、

「育つこと」「成長すること」「一人前になること」

これらをキーワードに、

一人前になるってそもそもどういうことだっけ?

なにを提供するとよいのかな?

などなど、思考をめぐらす機会も多くなった。

そして、これまでに社内で提供されてきたプログラムを粛々と引き継ぎながらも、

「ここで、なりたい姿をもっと意識してもらえたら、成長意欲も強くなるかな」

と要所要所をちらほらアレンジしてみたり。

 

でもなんていうか、

最終的に

ひとはほっといても育つ

結局そういうことなんだろうな、と実感している。

 

 

では、

ほっといても育つのならば、

ひとが成長するうえで大切な視座とはなにか。

 

それは、

足りないものを補い続ける

いわば マイナスをプラスにする足し算の発想ではなく

自分の中で自分像を見つけて形づくっていく

いわば 「中心」を見つける割り算の発想なのかもしれない。

 

幾多ある情報、日々重ねている経験、多種多様な人との縁。

わたしたちが毎日の生活の中で味わい、思考していること。

また実際に行動したことや、その結果。

 

それらをどう内省し、

自分自身のストーリーとしてはら落ちできるか、

そして、どのように前に進んでいくか。

生きることは、その繰り返し。

 

生きることは、

自分の輪郭を形どっていく作業ともいえる。

木を削って仏像を彫る、

つまり、自分にとって大切な「真ん中」を見出す。

自分のアイデンティティを知ること、思い出すこと。

そうして、その「真ん中」を知っていると、

自身のそのまわりに何が必要かもなんとなく分かるし、

自然と自分でそれを取りに行く。

 

もう、足し続けなくていい。

もう自分の中にちゃんと輝く自分はいて、

あとはそれに、

自分がまず認め、

自分が見出し、

人との関わりのなかで自分が勇気を出して引き出せばよい。

 

ならば、

育成する側に立った人間は、

育成する目の前の相手は

すでに十分足りている、満ちている存在である

という最前提のもと、

あとはそれに本人が気づき、

ともすれば雑多な日々を「割り算」しながら自分軸でいる、そんな習慣が立てられるように支援する、

つき詰めればそれだけでいいのかもしれないなって。

 

うーん、まだまとまってない部分もあるけど、

今感じていることをつらつら書いてみた。

ふぁー、久しぶりに長くなったな。(大欠伸)

 

さよならあいぽん

watermelon

暑い。

あつい。

アツい。

(;´д`)

↑変換機能で「あつい」と打ったら出てきた。笑

 

暑い日に食べたくなるもの。

かき氷?

きゅうり?

アイス?

トマト?

色々あるけど、スイカたまらん。

今年に入ってから、すでに5回以上スイカ食べた気がする。

昨夜もご多分にもれず。

 

母が近所の八百屋さんの店頭にかかった

『冷えたスイカあります』

のマジックにかかったらしく、

「買ってきちゃったわ~」

といそいそとお持ち帰り。

早速切ろうと持ち上げてみたら、重い。

片手では持ちきれず、両手で抱えてようやくというレベル。

母、強し!

 

ところで、

スイカを食べる音ってどう表現するのかな

とどうでもいいことが、気になってたまらない。

さくさく?

ガシガシ?

種を出す音も入れるとするなら、

しゃりしゃり、プッ

とかなのかしら。

個人的には

クシクシ

とか、なにげに好きかもしれない。

皮まで顔を近づけて頬張ってる感じも、

幸せそうにスプーンですくっている様子も、

音を通して見えてくるかな、なんて。

夏はたっぷりあるので、ゆっくり考えてみよう。(平和)

 

今日のひとこと。

タイトル通り、あいぽん卒業。

XPERIAに出戻り。

写真(カメラ)の質が全然違うよふふふ。(怪しい)

早速の一枚。

DSC_0003

その5分後。

DSC_0004

またよろしくね、XPERIA!

カラダとわたしと「全体性」

image

うーん、髪が伸びた。

春に髪を切って、今はショート寄りの長さのわたし。

マッシュボブともいうのかなこれ。

しかし、

もともとくせ毛なこともあり、

この時期は油断すると、すぐブロッコリー化する。

キノコ頭なんて、まだかわいいほうだ!

 

ところで、

身体(からだ)のことを考えるとき、

わたしたちは

「頭がいたい」とか

「肩がこってる」とか

「足がむくみ気味」とか

はたまた

「鼻水止まらない!」とか

「髪がまとまらない…」とか

「なんかだるいな〜、やる気でない」とか

さまざまな思考を走らせる。

精神的なものをはじめ、全身状況に対する思考もあるけれど、

こうして書くと、ある特定の部位にフォーカスしている思考も多いなあと。

 

ここ数日、寝る前のストレッチやヨガを再開した。

「今日はここがかたいんだな」

「お腹が張ってる、食べ過ぎたかもなー」

「昨日よりよく伸びてて、いい感じ!」

てな具合に、様子を見ながら(味わいながら)

疲れた身体をほぐしていく。

 

わたしは、耳鳴りや頭痛がすると、

どうしてもその症状ばかりに気を取られがちなのだけれど、

今の自分の身体とその重力の感じ方や、

地面への身の預け方・動き具合などに意識を向けると、

身体とは全体であり、

わたしの全体とはすなわち身体なんだな、

と実感する。

 

「わたし」というこころを一身に預かっている、

器としての身体。

「どこここが痛い」という観点だけでなく、

「いまわたしの身体はどんなコンディションなのか」を味わいながら、トータルで読み解くこと。

それが、自分の身体をマネジメントする司令塔としての自分自身が、大切にしないといけないポイントなんだなあと今更ながら。

 

小さなことひとつひとつにこまごま意識を払うことが

大切なときもあるけれど、

「全体性」を常に感じ、

そのつながりを味わえる、

そんな人間でありたいと思う。

 

うれしい?偶然

Bichon frise 3

ぬーん。

今晩は、七夕ですね。

ぬーん。

毎日、暑いですね。

ぬーん。

 

最近、

やっぱり英語で思うがままに話せたらよいな〜

と、

先の6月には、本を買ってきて読み、

この7月には、英会話トライアルレッスンへ向かってみた。

 

まあ

本といっても、英語に親しむことを目的とした

さまざまな題材の英文を多読する、教材のようなやつ。

しかし、もろもろ読みながらも、

6月に新たに頭に入ったのは

なぜか「Saliva 」という単語ひとつであったよ。

その意味、「唾液」なり。笑

 

そして。

先日、国内某所の英会話スクールにて。

マンツーマンのトライアルレッスン。

「Baby shower知ってる?」という話に。

「うんわかるわかる、赤ちゃん生まれたうちに贈り物を持ち寄るんですよね」とわたし。

「そうそう、僕はよだれかけとか大量にもらったよははは」と先生。

ふと、

あれ?よだれってどう言うんだっけ?

質問すると、

「Drool」

でももう少し生物学的に言いたければ

「Saliva 」

という表現もあるよ、と。

 

!!

すっかり忘れてたけど、そうだ、よだれ!

この前にも覚えたばかりじゃん、とテンション上がるの巻。

Saliva はよだれ。よだれはSaliva 。

なんだか嬉しい偶然。

だって、人生で、「よだれ」について

話題になる場面なんてそうそうないのに。

 

こりゃー、そろそろ英語始めましょうの合図だね。(げんきん)

 

 

 

 

 

 

夏のはじまりの日に

Bichon Frise 2

仕事終わりの、家への帰路。

車窓から、夕焼けを、ぼんやり眺めていた。

雷雨のあとの、きれいな青空。

空も雲も光もどこまでも透き通っている感じに、しばし見とれる。

 

その後、車窓からの景色は移り変わり、

夜のとばりが少しずつ落ちるころ、

雨上がりで空気が澄んでいるからか、

連なる山の稜線もいつもに増してくっきり。

 

そのとき、ふと思った。

昔のひとは、

山は、今よりずっと「やま」だったし、

川は、今よりずっと「かわ」だったし、

月は、今よりずっと「つき」だったのだろうと。

 

もちろん、今も昔も、自然をいつくしみ愛するきもちは変わらないのだろうけれど、

今のように、マンションも駅も工場もショッピングモールも建っていない

もっとシンプルな土地に立っていた人々にとって、

「やま」も「かわ」も「つき」も

今の何倍も、存在感があったのだろうなあと。

 

今日のふとした瞬間、地上のこまごまとした雑音がぷつんと途切れ、

土地に建っている家や工場の背後に音もなくそびえたつ、

「自然界の大きさ」がぐっと目の前に迫ってきたんだ。

 

「やま」を臨み「かわ」を眺め「つき」を愛でる。

「かぜ」を匂い「みち」を歩き「いえ」に帰る。

 

いまここにいる瞬間の、

いまここにある自然が、

いまここにいる自分を際立たせる。

 

周囲の喧騒に乱されることなく、いつも静かに、大きな自然と自分のなかを味わうことのできるひとでいたいなあとつくづく。

 

昨日は花火ポンポン、今日は雷ゴロゴロ。

夏の響きが、わたしにも届いてきた。

うーん、いよいよ夏がはじまるね。(伸びをしながら)

 

おまけ:

 

それにしても、かわいい・・・

昨日から白い犬をアップしているけど、なぜか私のどつぼ。

Bichon Frise (ビションフリーゼ)という犬種らしい。

 

あたまのことば、こころのことば。

bichon frise1

前回のつづき。

書かなかった期間に見えてきたこと。

それは、

わたしという人間は、

「あたまのことば」ではなく、

「こころのことば」を綴りたい伝えたいんだということ。

 

わたしたちは、普段の生活の中で無意識に考えている。

考えるということは、脳内で言語化をしているともいえる。

 

『今日の夕飯、なんにしよう』

『あの人はさっき、何を伝えようとしていたのかなあ』

『そうだ、あれやっておかないといけなかった〜』

 

ひらめき、思索し、行動する。

わたしたちは、日々、その反応を、何百回何千回と積み重ねている。

 

 

なんだか何も書く気になれなくなっていた、6月のある週末。

部屋の書類の整理をしていたら出てきた、

自分の中高時代の原稿やら、

エッセイ作品が掲載された冊子やら。

どれどれと読み進めてみると、なかなか面白い。(自画自賛)

なんていうか狙わず、てらわず、感じるままにことばに出してる感じ。

(ああ、語彙力ない。笑)

 

「あたま」で考えて練っているというよりは、

「こころ」で感じたことをまずことばにして出してみて、

そのあと、文章を推敲している。

噛み砕いてみると、そんな感じなのかな、うん。

 

たとえば読書感想文。

当時中学生のわたしが、本を読んで心動かされたことを思うがままに。

たとえばホームステイ体験記。

当時高校生のわたしが、夏休みにカリフォルニアに滞在して、自分の目で見て聞いて実感したことをそのままに。

文字にしたら取るに足りないことなのだけれど、

今読んでもその当時の思いが伝わってきて、鮮やかによみがえって。

 

実際、当時、まずは原稿用紙にきもちを書き出して、

それを声に出して読み上げて、より自分の心情に添うことばに近づけていた。

日本語も英語も同じやり方で。

「ああそうだったよなあ、文にするってこういうことだった」

と、忘れていた原点に揺り戻された。

 

20代ぐらいからなのだろうか。

論文であったり、ビジネスメールだったり、

書くという行為にあたって、まず

導き出すべきことや、おさえるべき考え方や、伝えなくてはいけないことを

意識する機会が増えて。

それは書くことに限らず、その他なにかしら伝えるどの場面でも同様だったと思う。

書くために、言うために、なにかしらのことばをいつもあたまの中に貯めて備えている感じ。

 

とくに仕事を始めてからは、

あたまの中に絶えずなんらかのことばを持っていて、

いつしか発する言葉も「あたまのことば」になっていたと思う。

感覚(右脳)ではなく判断(左脳)寄りのアウトプット。

もちろん仕事をするうえで、考えたり判断することは欠かせない習慣なのだけれど。

でももっと、同時に、

「こころのことば」も忘れない自分でいたいし、

個人としてなにかを表現する場面では、「こころのことば」で書ける自分でありたい。

そんな自分の真の欲求が、

「書きたくない」という突然の拒否感になって表れたんだなと。

 

別に論文を書きたくないとか、ビジネスメール飽きたとかではなく、

普段の過ごし方において、

常にあたまの中に、ことばをめぐらせることをやめたい

突きつめるとそういうことなのだと思う。

ぐるぐる考えずに、フラットな自分でいることを意識する。

Googleなどで推奨されている、マインドフルネスもこの領域を目指しているのだなあと今更ながらに納得。

 

月も変わったことだし、考えるのをやめる練習、ちょっと続けてみよう。

ふと見つけたこのサイトにヒントを得て、試しにここ1週間ほどしてみてるけど

【→東洋経済オンライン「心が強いひとは「ムダな考え」を消している」】

なかなか難しいしたのしい。

そして、

「あたまのことば」を淘汰しているからか、

ひょんなことからきこえてくる「こころのことば」、

たとえば、

『これはなんかよさそうな気がする・・・』

『わー、やってみたい』

『そういうことか、なるほど』

が、よりはっきり胸に飛び込んできて面白い。

 

ひとの「あたま」と「こころ」、そして「ことば」。

やっぱり深いね。

 

さいごにひとこと:

書きたくないという謎の衝動に「なんだこりゃ」状態だったけど、

「まーなんかあるんだろう」と無理せずに放置してみて、

結果、

自分のなかの葛藤とか素直な欲求に、

いま気づくことができてよかった。まる。