月別アーカイブ: 2016年8月

高速列車に乗りながら

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道みちに、セミの亡骸がころころ。

夏が終わった、ねえ。

 

今年も夏を盛り上げてくれてありがとう、

と思いつつ、避けながら歩く。笑

わたしには、セミの鳴き声はきこえないけど、

きみたちやっぱり夏の立役者なんだねえ。

 

セミの話をもうちょっとすると(笑)、

亡骸をあちこちで見かけるけれど、

割に、というか、ほとんどは

仰向けで転がってるのがまたおもしろい。

なんか『終わりました~』感が満載じゃない?

つられてこちらも、

『さようなら~』『お疲れさま~』

そんな気分にさせられる。

何気ない道みちのセミの、そんなことにじわじわきている、最近のわたしでした。

 

ここのところ、

いろいろ面白いひらめきはあるんだけど、

ぜんぶ生活上動いているときにおりてくるので、

こうやって、一息ついて書いてるときには

内容をきれいさっぱり忘れているという。笑

 

今日はそのなかで覚えていることを、

ひとつふたつ(いくつだ)、

自分のメモがてらに。

 

わたしは、いわゆる高速列車に乗って通勤している。

電車のなかでは、

本読んだり、

仕事したり、

でものんびりぼんやりが最近はいちばん多い。

 

このまえ、仕事終わりに列車に乗り、

座ってほっと一息。

さてなにしよっかなー

と、暗くなりゆく夕どきの窓の外に目をやる。

 

そしてこんなことに思い至る。

 

これは高速に前にすすむ列車。

だから、たとえぱ

自分が前にすすむための勉強だったり

自分がなにかをすすめるための仕事だったり

自分が次に取り組みたいこととそのコミュニケーションだったり

そんな作業をすると、

すでに自分の身体が実際に高速で「すすんでいる」から

進みも劇的にはやいんじゃないかなあ。

 

だったら、折角のこの時間、

もっとなにか前向きなことに使わない手はないよなあ。

 

なんてことをふと。

 

おまけにもうひとつ。

これはたしか、とある日の朝に得た気づき。

 

高速列車のなかで、

いわゆる”回顧”に浸っていると

身体がぐんぐん後ろに引っ張られる感覚がある、

という発見。

 

どういうことかというと

たとえば

『そういえばあのとき、こう言えばもっとよかったかも』

『あの場面で、なんであの人はあれをしたのかな』

『そうかそのやりかたもあったなー』

などなど、

起こったことに対して省みるとき

意識は後ろ(過去)を向いている。

 

向いている結果、

前へ前へと進む力に満ちている

高速列車のなかでそのようなことを思っていると、

身体がどんどん椅子に沈み込む。(気がする)

 

過去って、いわばもう過ぎ去ったことなのに

そこを考えはじめてしまうと、

前に進み続けている列車の動きに対して、

意識とからだが追いついていけないんだなあと。

 

まあちょっと、独特の感覚かもしれないけど。

でも、わたしが高速列車で「体感」させられたこれって、

よくよく考えてみると

普段の生活でも当たり前に起こっていることでもある。

前へ進んでいいのに、昔のことを引きずるとか。

一歩踏み出せばいいのに、なにかにこだわって進めないとか。

前を向けばいいのに、下ばかりうつむいているとか。

とか。(略した)

 

前向き、後ろ向き。

よく前向きはポジティブ、後ろ向きはネガティブと

それぞれ捉えられているけど

わたしはもうちょっと単純に、

前向きは未来(可能性)を、

後ろ向きは過去(制約)を、

意味しているのだと解釈している。

 

どちらもあってよくて、

でも後ろばかり向いているのは不自然で、

人間は目が前についているから

ちょっと前を向いて歩を進めているほうが自然なのかなって。

 

たかが高速列車での時間、

されど高速列車での時間。

おもしろいことに気づかせてもらったな!

いつもありがとうしんかんせん。

 

 

 

 

こころの3D化

sarusuberi

毎日、あっついから、

8月に入ってからは

沿道の木々や花々も、心なしか存在感控えめ。

 

春先から初夏にかけては、

あんなに張り切って伸び伸びしてたのにね。

 

でも、

そんな毎日でも

無心に太陽の日射しを浴びて、

にこにこ幸せそうに呼吸をしている気がする。

もうちょっと、水は欲しそうだけど。><

 

さて、

数日前に書いた、こころの中のボールについて。

 

ひとは、起こった出来事に対して

脳というかこころというか

からだの中で「反応」をしている。

そしてその「反応」をボールでイメージしてみると、

今自分はどんなきもちなのかを「見止め」やすくなるし、

怒りや悲しみ、つらさ、などは

そこから少しずつほぐすイメージをしてみると、

自分のこころに向き合いやすくなる

・・・

というようなことを書いた。たぶん。(適当B型)

 

きっとこの感覚に近いと思うんだけど、

今日、道すがらなんとなく感じたことがあったのでメモがてら。

(メモと言いつつ、いつもより長文。長いメモ。笑)

 

今、テクノロジーがさらに発展してきて、

たとえば 3Dプリンターとか、

たとえば VR型ゲームとか、

新たな技術価値と感性価値が生まれ続けている。

 

平面的だったものを、より立体的に。

見るとか聴くだけだったものを、より身体全体で味わうように。

そのキーワードは、『リアル』。

それは、今まで脳の『想像力』で補っていた領域を、一気に現実領域に手繰り寄せたともいえる。

 

でもふと思うんだ。

相手や周囲に対する『想像力』があるから、

人はやさしく思いやりを持って生きられるのに、

こんなにどんどん立体化やらリアル化を進めてよいのかなあって。

 

『想像』することは、

そのぶん自分の中で『創造』すること。

 

ところが、

はじめから造りこまれていると、

自分なりに創造する余地がない。

ゼロではないけれど、自分なりの『想像』『創造』の振り幅はどうしても狭くなる。

(もちろん、全部が全部、そういう技術的発展ばかりではないけどさ)

 

例えていうなら、

小さい頃に絵本を読んでいて

自分なりにわくわくイメージを広げていた世界観を、

誰かがジオラマに再現したものをある日見させられたときに味わうギャップのような、

そんな感じに似ているのかなー。

 

まあそうは言っても、

ひとはどこまでも貪欲だから

テクノロジーの追求追究は今後も止まないのだろう。

うーん

進んだら、戻れないのにね。

うーん

うーん

どうせ (←あまり好きではない言葉だけどここではあえて)

ものの3D化が進むなら、

こころの3D化をもっと進めたいな、

なーんて。

 

こころの3D化とは。

自分の気持ちを認め、味わうこと。

自分の気持ちを味わい、客観視すること。

自分の気持ちを客観視し、ほどくこと。

自分の気持ちをほどき、放つこと。

そうして、自分を解放すること。

 

 

起こったことも、感じたことも、無かったことにはならない。

すべては、経験するべくして起こっていること。

でもさ、

嬉しいことや幸せなことはただ味わいつくすのもいいけど、

ショックなことやきついことは

事実を見つめるのも

それを感じている自分を受け入れるのも

難しくて葛藤が起こる。

頭も心もぐるぐるする。

 

だけど、

ふうーーっと息を深くふかーく吐いて

そんな気持ち(ボール)がここにあることも

そんな気持ちになった自分のことも

そんな気持ちを起こした出来事も

認め、受け入れ、癒し、感謝を込めて「味わいつくす」。

 

この暗いトンネルの出口がどこかなんて

皆目見当もつかないけれど、

「よし、味わいつくすか。」

そう覚悟を決めた瞬間、

手放しはもう起こりはじめている。

 

そうして

いつかそっと

自分の思い(重い)を解放したときには

それも込みで、人生経験のひとつとして自分の肚におち、

解放した分の新たな風が起こり、

なにかすてきなものが飛び込むんだろうなって。

なんかいいね。

 

いわゆるカウンセラーは、

対話のなかで、このこころの3D化を助ける職業ともいえるのだろう。

クライエントが自分の悩みを打ち明けるプロセスを通じて、

思いを言語化させることにより、

「見える化」を手伝っていく。

 

わたしは、人の悩みを聞くのはあまり好きではない性分だし

カウンセリングを生業にしている人はすごいなあとつくづく。

 

一方で、

こころの3D化は、

コツさえつかめれば各自が自分で出来ることだとも思う。

 

これからの時代は、

カウンセラーを必要とするひとと、

自分自身で自浄を進めるひとと、

二分化するのかもしれないねえ。

自分なりに自分と向き合い、癒し、進むことのできる人がもっともっと増えたらいいなあ。

そのために、わたしは何ができるだろう。何がしたいだろう。

 

 

今日のひとこと。

画像の花は、百日紅(さるすべり)。

今わりと満開で、他の木々が暑そうな中、

風にゆっさゆっさ枝を委ねて

夏を満喫してるようなその表情が面白いなー。

どの花も個性的だけど、百日紅の自由さ能天気さなんか好きだわ。

 

さあ光を放て。

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今日のふじさん。

 

夕空なのに、

太陽の光が上へ上へと伸びていて

きれいで見とれた。

 

そして

sky160807

同じ時間の東の空。

こちらは雲から光が上へ上へと伸びてるかのよう。

これまたきれいだなあ。

 

人って、本当にきれいなものを前にすると

ただぼんやりとするよね。(した)

 

どうもここ10日ぐらい、

旧知の友人何人かから連絡をもらったり

入社当時の同期や知人とやりとりする機会があったり

大好きな今は亡き愛犬をしきりに思い出したり

『なつかしい』がひとつのキーワード。

 

わたしにとって、

これらの『なつかしい』は、

イコール、居心地のよさとか自分らしさ、とかにもつながる感覚。

なにかじぶんの人生にとって

大切なことを思い出そうとしているのかな、

なーんて。

 

 

あっっっついし、

まだまだお祭りも花火大会も賑やかだけど、

今日8月7日(もう日付変わったけど)、

暦のうえでは初秋に。

 

実りの秋ももうすぐ。

真夏の日差し浴びながら、もうひと伸びしましょうぜ。いえいいえい。

 

 

むすんでひらいて

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昨年訪れた、オーストラリアでのひとこま。

まだ一年経ってないけど、

ずいぶん昔のことのように感じる。

歳かな?笑

 

海、砂浜、太陽、波、サングラス、はだし。

あたま空っぽにして、

砂浜にはだしの脚をなげて、

遠くの水平線をぼーっと眺めた幸せ。

 

さて、

今日はそんな風に穏やかではないときの(笑)

こころの見つめ方について、

個人的気づきをメモがてら。

 

何かに怒ったとき、

何かにいらいらしたとき、

何かを嘆いているとき、

何かを憂いているとき、

何かが悲しいとき、

何かがつらいとき。

 

わたしたちの心のなかには、ボールが現れる。

ふつうのテニスボールや野球ボールではない、

ちょっと変わったボール。

 

あるときは、端切れを寄せ集めたようなたま。

あるときは、丈夫な太紐をぎゅぎゅっときつく結んだようなたま。

あるときは、チェーンをがんじがらめに縛ったようなたま。

 

これ、”感情”のボール。

“反応”のボールと言い換えてもいいかも。

 

なにか出来事があったときに、

とりたてて自分の中で反応しなければ生まれないけれど、

思考の癖であったり、

いわゆるバイアスをかけて眺めたりすると、

ぽろっと心の中に生まれるボール。

怒り、悲しみ、驚き、なんらかのかたまり。

 

「あ、ボールが出てきたな」

と思ったら、

一瞬たじろぎながら、

次の瞬間にはつぶしたり投げたりしたくなるかもしれない。

蹴っ飛ばしたい勢いのときも、あるだろうね。

 

でも、まずはボールがこころの中にあることをみとめる。

それだけでいい。

認める、というよりは、「見止める」。

「あ、今、わたし反応してるんだ」、と。

 

そして、ゆっくりとほどきはじめる。

ぎゅっと固くなっていたり、こんがらっているボールを

時々もんで空気を入れながら、ゆるんだ箇所をつくり、

ゆっくりゆっくりほぐしていくイメージ。

 

絡まったネックレスのチェーンを、

指先でつまみ、手を動かしながら、

どこがほどき目かなー?とじわじわ攻めていく感じ。

 

むすんでひらいて。

 

最近読んだ本に、グーになった感情は、

パーにしてゆるめてあげるとよい、という一節があり。

なるほどなあと思いつつ、

わたしの場合は、ボールでイメージするとより気持ちがほぐれやすいなあと。

 

人によっては、

知恵の輪だったり

ルービックキューブだったり

風船だったり

いろんな「感情」「反応」の表し方があるかも。

 

大切なのは、自分の感情の見える化と、

それを客観視しながらよりフラットに落ち着けていくこと。

ボールも自分の分身のようなものだし、

可愛がりながら、でも最終的にはほどきまくればいいんだね。うしし。

 

 

今日のひとこと:

旅をして、こころに響く景色が増えると、

その心地よい音色があとあとまでよみがえってくる。

もしちょっとぐらいいらいらしても、

その時間空間を、こころの中でよみがえらせられると

途端にいらいらも帳消しになるから、

旅の充電効果ってすごいんだなとつくづく。