月別アーカイブ: 2016年9月

こんなことって

sunset

 

わー!

と口を開けて驚くできごとって

日常、そうない気がするのだけど。

 

今日、仕事を終えて、

電車に乗り込んだとき、それは起こった。

(いつもの高速列車)

 

席に座り、

先ずはいつもやっているように家にメール。

『●時●分 品川発乗りましたよ~』

 

あと、

わたしは今朝仕事都合で家を出るのが早かったので、

同じく出かける予定だったにもかかわらず

早起きしてサポートしてくれた母に対して、

『朝早くにありがとうね!お出かけお疲れ様』

と追加コメントを送ってみる。

 

数分後。

ピカピカっと着信ランプが光って、返信が。

 

母からである。

 

『同じ列車かも、5号車に乗ってます』

 

ほう!

 

以下、わたしの心の声をお送りします。

 

そうか、今日は東京出かけてたから

東京から乗ってるんだねなるほど。

 

で、

ちなみにここはなん号車だっけ

 

あ、5号車だ。

 

いるかな~?

と首を伸ばして、車両内をちょっと見渡してみる。

 

でもみんな前を向いてるし、わからないかあ

と視線をスマホに落とそうとしたとき。

 

前の座席の人の後頭部が目に入る。

 

どっかで見たような色合い…

(黒とグレーと栗色のオマージュ)

どっかで見たような髪質…

(けっこう剛毛)

…!

もしや!

 

急いでメール。

『もしかしたら前の席にいるひとかも、わたしは10番だよ』

 

前の席の人の後頭部を、しばし見守ってみる。

そしてそして

前の人がゆっくり振り向く。笑

 

母だ!!笑

 

わー!

ふたりとも開いた口がふさがらない。

 

窓と座席の隙間から目を合わせて、

思わず笑い合う。

すごいねえ。

あらまあすごいねえ。

 

ちなみに

わたしはいつも乗る時間は決まっておらず、

もっと言えばいつもは5号車には乗らない。

なんだけど、

今日はなんとなく

いつもと違う車両に乗るのもよいかな、

なんてふらふらっと乗り込んでみたのでした。

 

母は母で、

予定ではもっとはやい列車で帰るはずだったけれど

お姉さんにお付き合いしてて遅くなった、

さらに

もっと前の座席に座ろうとしていたけど

子どもがうるさかったので

後ろに移ってきたのだと。

 

ああよくできてるね。(大の字)

もう人生って、実によくできてるね。(仰向け大の字)

 

普段のわたしを知っているひとは分かるかもだけど、

わたしは基本的に能天気かつ単純な人間なので

こういうできごとには感激しまくり。

 

うん、

なんかいろいろと「合ってきた」なあと感じる。

滞っていたものが、

淀みなくてらいなく

流れはじめたな。

 

自分の直感通りに信じていいし

自分の感覚通りに動いていい。

そんな太鼓判を押してもらったような気分。

 

そんなこんなで、

思いがけず、通勤帰りに、母と話しながら帰った秋の夜。

リラックスしてしまい、欠伸が止まらなかったわ。笑

何度も、何度でも。

rain drop

連休の谷間、今日は在宅勤務。

本棚が運び出されて、すっきりした部屋で仕事。

せっせっせ。(効果音)

 

雨模様の空は、きらいじゃない。

もくもく流れる雲を、ぼんやり眺めたり。

ゆるゆる散りゆく雲を、静かに見守ったり。

ぐんぐん迫る雲を、わくわく迎えたり。

 

雨模様の道は、きらいじゃない。

雨のしずくを、一身に受けとめる草花とか。

雨の打つリズムを、リズミカルに伝える木々の葉とか。

雨のにおいを、ふわっと際立たせる地面とか。

 

雨模様の窓は、きらいじゃない。

濡れたアスファルトに映る、ヘッドライトのゆらゆらした光。

新幹線の車窓に行儀よく整列して、時に斜めに時に真横に走るしずく。

まるで涙のように、いっぱいたまるとガラス面伝いにつつーっと落ちるもうひとつの雨。

 

外は雨、中にはわたし、へだつ窓。

 

個人的には

雨って、

「絶え間ない」

「繰り返す」

「循環する」

といったイメージがあるのだけど

その関係か

「何度も、何度でも」

というフレーズが連想される。

 

きこえないわたしは、歌をきくとき、

歌詞よりも先に、

そのメロディーの響きや全体的な雰囲気、

またはダンス振付や映像といった視覚情報に

インスパイアされる。

 

こちらのRADWIMPSさん「ラストバージン」は

ミュージックビデオが面白くて、

なんだか心にはまった作品。

 

数年前、

見かけた映像が印象的で、興味をもって、

歌詞を調べて覚えたんだったかなー。

 

このMVの世界観と、

途中登場する「何度も、何度でも」のフレーズの親和性も味わい深くて、

こんな秋の雨の日は、なんとなく思い出す一曲。

 

 

何度も、何度でも、同じことで悩んでもいい。

何度も、何度でも、同じことで泣いたっていい。

何度も、何度でも、同じことで苦しくたっていい。

わたしたちは、すぐに変わることのできない存在だから。

 

変わることができないのは、

イコール、代わることができない、

かけがえのない本質を持つゆえんとも思う。

ひとは、一貫性のある存在だから。

 

昨今、成長とは変化し続けること、

と取りざたされる傾向があるように感じるけれど、

ムダなものをそぎおとし、その人の本質に立ち戻ること、

それも成長なんだよなと。

 

何度も、何度でも。

同じことで悩むこと、苦しむことを

自分に許してはじめて、

また新しい自分への一歩を踏み出せる気がする。うん。

 

この遠い道程のため

zebra isolated

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

ああ、自然よ

父よ

僕を一人立ちさせた広大な父よ

僕から目を離さないで守る事をせよ

常に父の気魄(きはく)を僕に満たせよ

この遠い道程のため

この遠い道程のため

 

(高村光太郎 「道程」 1914年)

 

ふと脳裏をよぎった、

高村光太郎さんのこの詩。

なんだかもっと調べてみたくなって

ちょちょいとぐぐってみるの巻。

 

大正3年に発表されたこの詩は、

もともとオリジナルとなる原詩が発表され、

その数ヶ月後に、よく知られたこの冒頭バージョンが公開されたらしい。

原詩はぐぐると出てきますが(適当)

その出だしはこんな感じ。↓↓

 

「道程」           高村  光太郎

どこかに続いている大道を僕は歩いているのぢやない

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

道は僕の踏みしだいて来た足あとだ

だから 道の最端にいつも僕は立っている

 

何という曲がりくねり  迷い  まよった道だろう

自堕落に消え  滅びかけたあの道

絶望に閉じ込められたあの道

幼い苦悩に揉みつぶされたあの道

 

振り返ってみると  自分の道は  戦慄に値する

支離滅裂な  またむざんな  この光景を見て

誰がこれを生命の道と信ずるだろう

それだのに  やっぱり  これが生命に通ずる道だった

(後略)

 

なんかもう、

やっぱり言葉を紡ぐ世界はすごいね。

 

道は、足あと。

足あとは、道。

 

生命の道。

生命に通ずる道。

 

今のわたしが『道』ときいて思い浮かぶのは、

2015年の師走、

自転車でひた走ったオーストラリアのあの道

 

迷って島内の同じところをぐるぐるしたし、

きつい坂を前に背負った荷物も自分の体重ものしかかってきて窒息しかけたし、

全身から湯気が立ち上る暑さに水がおいしすぎたし、

雲ひとつない青空のした、

ああ生きてるんだなー

ああわたし幸せだなー

と風に吹かれながら、

ただ今この瞬間のいのちを味わうことを知った。

 

いのちといえば、

まもなく、

家族だった愛犬の命日。

 

10月あたまの新月の深夜、

しーちゃんは息を引き取った。

15年の生涯の最後の日々、

生き抜くってこういうことなんだ

という姿を見せてくれた。

 

本当にまったく動けなくなった数日は、

いっぱい抱っこもした。

今もこの手のなかにあった、

ふわふわの毛と

あたたかな体温と

たしかに脈打つ心臓と

荒いながらもどこか静かに繰り返される呼吸と

それに合わせて上下するピンクのかわいいお腹と

・・・

 

今も思い出すと悲しいしさみしいけれど、

しーちゃんはあのとき、

生きることの原点を

小さなからだで目一杯伝えてくれたんだと

信じている。ありがとう。

 

生きること、

息をすること、

地に足を踏みしめて立つこと、

一歩一歩、無心に、前に歩みを進めること。

 

あーよかったな、ちゃんと思い出せて。

生きることの原点、いのちあること。

そして、いのちを躍動させるのは自分自身の決意に他ならないこと。

 

いのち、呼吸、あるく、生きる。

いのち、鼓動、出会う、生き抜く。

いのち、躍動、すすむ、生きた。

 

道の最端、次はどんな景色が見えてくるだろう。

 

手放したくて、秋。

water

 

最近、ちょこっと断捨離モード。

 

クローゼットの衣類の2割を処分して、

本棚の書籍類の3割を処分して、

 

あげくの果てには

本棚そのものも処分することに。笑

 

欲しい、と言ってくれる引き取り手がいてよかったな。

 

でも、

本を処分したと言っても、まだ残り100冊以上。

今度くる、新しいキャビネットに収まるかなあ。

一応、天井までの作り付け棚だし

収納量に不足はないと分かりつつも

新しい大型家具って、来るまで割とどきどきするね。

 

手放したくて仕方がないこの頃。

 

ここ10年ぐらいのあいだに

仕事関連で取得した資格のテキストや教材も

なんとなく捨てられずにとってあったのだけど、

それらもすっぱり捨てた。

 

こんまりさん風に言うなら、

「ときめかなくなった」

ただそれだけの理由。

 

「もしかしたら、テキスト使う場面があるかも」

「もしかしたら、また勉強し直すかも」

「もしかしたら、違う資格とるときに参考になるかも」

もしかしたら、

もしかしたら、

もしもしかめよ、(どさくさ)

……

頭で考えると、

上に書いたように

捨てない理由はたくさんあるのだけどね。

 

ところが

心で感じると、

たったひとこと

「なんか、もうおもしろくないかも」(ばっさり)

「うん、なんか違う気がするわ」(あっさり)

 

何かを選ぶときに、

迷ったら、

わくわくするほうを選べる自分でありたい。

 

そのとき

片方をお預け(= 一旦手放す、ないし捨てる)

にしたとしても、

またいつか取りに戻ればおっけ。

 

取りに戻るまでのあいだ、

もしかしたらそのお預けにしたものも

いい具合に発酵していくかもだしね。

例えば、納豆のように。(例え方…)

 

一度手放したり、別れたりすることがあっても、

そのものやひとが、

自分の人生にとって本当に必要な存在なら

その後の成長した自分にもっと相応しいタイミングで再会するのだと思えば、

どんな取捨選択であれ、

どんな出逢い・別れであれ、

一時たりとも無駄な道はないのだろうなって。

 

今大切なのは、

自分に自由に選択することを許すこと、

そして

選択したらそのチョイスに自信をもって歩みを緩めないこと。

 

たかが断捨離、

されど断捨離。

もうしばらく、身も心もすっきりするために続けてみようっと。

 

まっすぐまっすぐ

yakusugi

まっすぐ、まっすぐ。

 

まっすぐ立ち、

まっすぐ伸び、

まっすぐ進む。

 

しっかり立ち、

しっかり根を張り、

しっかり沈む。

 

空へ空へと枝を広げることは、

地へ地へ根を張り続けること。

天へ、大地へ。

地へ地へ根を張り続けることは、

空へ空へと枝を広げること。

大地へ、天へ。

 

まっすぐ立ち、

しっかり立ち、

今ここを生きる。

 

以前は、

伸びたいなら先ずは根を張らないととか、

やっぱり見えないとこでの努力なのかなとか、

でも上へ上へと向かう勇気も大切だよなとか、

考えていたけど。

 

今はただ、

まいにちを一生懸命過ごしていれば、

自然と

空へも大地へもちゃんと伸びてるんだって

自信と確信がある。

 

ひとはみんな、

自然界ともつながる存在だから、

言ってみれば、

まわりのいのち(たち)と同じエッセンスを持ってるんだよねきっと。

 

にんげんだけが

特別ないのちではないし、

一方で

自然界の美しさを、ちゃんとわたしたちも備えているわけで。

屋久島に根付く巨木と同じく、地球に生きる「いのち」だから。

 

だから、

無理してバランスをとろうとしなくても、

そのまま誠実に丁寧に歩んでいれば

それだけで貴くかけがえのない「いのち」として

輝きはじめているんだきっと。

 

そんなことを、近所の神社にいらっしゃる

樹齢うん百年の欅を眺めながら。

 

あー

それにしてもなんだか

時間のなかを流されて生きるだけでなく、

もっと、風のなかを流れるように生きたいなー。

 

追われるのではなく、

追いかけるのでもなく、

空におよぐ雲やら風にそよぐ木々やらのように

ただただ、漂いながら。

ただただ、いのちのままに。

 

9月9日、このブログ始めてまる一年になる。

他愛もないまいにち、

かけがえのないわたしのいのち。

 

追伸:

木が好きすぎて、木になりたい今日この頃。笑

写真は、屋久杉。

来年あたり訪れてみたいな!