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明日、今日よりも好きになれる。

musique

ひょんなことから、ピアノを習いに。

週末、一時間ほどレッスンを受けた。

 

いやーーー

いい汗かいた。(違う)

 

衝撃のボイストレーニングから、一年の月日が流れ。

歌うことや声を出すことには

どうしても苦手意識があるので、

ちゃんと習うとかして克服したほうがいいのかな

と思ったりもしたけど。

 

でもね、

『苦手だから頑張らないと』

『できないから努力しないと』

はもういいかなって。

 

先のボイトレの場面で先生の思わぬことばに気づきをもらったような、

ふとしたきっかけのふとした瞬間の歓びを

丁寧に積み重ねていくだけで

もうそれはかけがえのない経験であり。

まだ努力の余地があるかな?ではなく、

ありのままに受けとることを自分に許したいなあと。

 

『きこえないからがんばる』(そうだよがんばらなくちゃ)

『きこえないけどできる』(まだまだ努力しないと)

はもう、お腹いっぱいだよ。

 

今の自分は十分に足りていて、

今の自分は完全に満ちていて、

今の自分は完璧に整っていて。

そんなふうに、自分が、自分を認めてあげよう。

そこから、進みたい未来、挑戦したい何かが湧いてくる。

 

で、

「じゃあ今のわたしは何をしたいかなあ?」

と思いをはせてみた結果、

「ピアノ、久しぶりに弾きたいな!」(大声)

となったわけです。

 

前置きが長くなりましたが。(前置きだったのか)

 

ピアノ、久しぶりでした。。

譜面をみて、ちゃんと音符に合わせて弾くなんてたしか中学生以来。

じつに15年ぶりぐらいのいきおい。いやもっとかな。笑

 

レッスンはface to faceで、まず挨拶と自己紹介から。

先生にピアノ歴を尋ねられ、

5歳から15歳頃まで10年ぐらいやっていたこと、

最後の発表会ではベートーベンの月光ソナタを弾いたこと、

それは第3楽章でけっこう背伸びして頑張ったことなどを。

 

「あら、上級者でいらっしゃるんですね!」

そんなふうに昔のわたしを褒めてくださり、

ちょっと照れるの巻。

現在のわたしは、すでに譜面さえ読めないなんちゃって初心者だけど。

だって、冒頭画像の音も

「うーん… ラ?」てな感じだからね。(正解はド)

 

それでも、

右手と左手分けながら指運びの練習したり、

先生に片手側を弾いてもらいながら二人で合わせてみたり、

とにかく譜面を読みながら、同時に指を動かして、鍵盤のうえで音を奏でていく。

 

うおおーなつかしすぎる!

むはあーたのしすぎる!

クラシックをやりながらも、

頭のなかはポップスとロックの世界。カオス。

 

自分の指の先から部屋に響くピアノの音と、

自分の指の先から身体の内に伝わるピアノの音と、

自分と、自分の指先と、ピアノとがたしかにつながり響き合う感覚と、

どれもこれもきもちよかった。

 

幼少時にピアノを習っていてよかったなと思うのは、

ピアノの鍵盤とそこから奏でられる音のイメージが今も身体のなかに残っていること。

それはどういうことかというと、

聴力が落ちて音楽を耳にしてもなかなか歌詞やメロディーが掴めずとも、

鍵盤のイメージをみて、その歌がなんとなくわかる、ということ。

 

 

たとえば、

最近だと、GReeeeen(e多いかね)の「キセキ」。

いい曲らしいと知りつつも、よく知らない。

そんなわたしが、どんな曲かなあと思ったときに先ずすることは、YouTubeでこう検索。

『キセキ(曲名)(スペースあけて) ピアノ』

 

で、以下のようなコンテンツを見つけて再生してみる。

 

ご覧いただくと分かるように、音を聴く+見る感じなのです。

 

声が入ってないから

メロディーと歌詞の符号は推測になるけれど、

曲のもつ旋律の美しさとかリズムのとりやすさも、

感音性難聴のわたしにとっては

楽曲を味わううえでの大きな比重になるので、

まずはまるっと味わえればおっけ。

 

あとは、

ピアノ曲の場合、人の声が入っていないぶん

純粋なメロディーをとりやすいというか

音そのものに集中できるのもよい。

 

で、これに耳が慣れたら、

実際のMV見に行ったり、声入りの曲を聴いたり。

そうすると、ただ楽曲を聴くよりも

予めメロディーや音の高低のイメージがついてるので

より歌をつかまえやすいというか。

要はピアノを使って予習している、のかも。

 

歌番組で披露している場面を見かけて好きになるパターンもあるし、

こんな風にリサーチした結果はまるパターンもあるし、

でも共通しているのは、どの楽曲も耳ざわりがよいこと。

なんていうのか、そのときどきの自分の耳とこころに心地よく響く音。

逆にいえば、そのときにぴんとこなくても

あとで「あ、この曲いいな」と突然はまることも多いし、

好きなアーティストであっても、耳ざわりがよくなければあまり聴かない。

 

なんだかんだ、音楽が好きなのです。

 

まあ、きこえない人の中でも

ちょっと独特のアプローチかもしれないけれど。

独特なのは今に限ったことじゃないしねえ。(他人事)

わたしなりの音の楽しみ方がどんどん見つけられて、これまた楽し。

 

いやーーこの歳でピアノ再開とは!

次はなにかな?ダンス?(ターンしながら)

電池切れ

image

はふーん(大の字)

連休終わりの切なさとかけて、

わたしの現在の右耳の補聴器状態ととく。

そのこころは、

 

電池切れ。

 

いつもは電池が切れたら

即交換なんだけど、

それもめんどくさい。

まあこんなゆるい夜もたまにはいいかな。

 

以前は、ひとと一緒にいるとき、

それが学校であれ職場であれ

電池が切れるのがこわかった。

だから、

だいたい1週間とか経ってそろそろ切れる頃かな〜と思ったら

先んじて新しい電池に交換していたっけ。

 

いまは、

聴力が少し落ちたこともあってか

切れることをあまり気にしなくなったというか。

いいんだかわるいんだかは別にして、

電池が切れても

人前で補聴器を外して電池を交換することを

あまり厭わなくなったのも変化のひとつ。

電車内であれ、職場であれ、割りとその場で。

 

むかしは、

わざわざトイレとかに入って変えてたぐらいなのにね。

中1のとき、

それで補聴器をトイレに落としてダメにして、

ひとり早退したこともあったなあ。

甘酸っぱい青春時代である。(遠い目)

 

さ、お風呂入ろう。

 

 

脳のエネルギーのゆくえ

spa

はい、休日出勤。(哀)

その後は、マッサージへ。(愛)

すっかり定着した、休出時の人参方式。

ミュージカル等の脳刺激系人参もいいけど、

やはり鍼灸やマッサージといった身体リラクゼーション系人参も捨てがたい。

次の休出が待ち遠しいな!(大嘘)

 

今日は、

ホットストーンをやってもらったのだけど、

これがまた、気持ち良くてですね。

セラピストさんの手の温もりと、

ストーンの地の温もりとでとろけた。

力加減も絶妙な方だったな〜。またお願いしたい。

 

ところで。

最近の私的気づきを、メモがてら。

 

とある大学の先生にお会いする機会があり、

“きこえない人の情報のとり方” に話が及んだ。

なんで、そんな話になったんだっけな?

細かな点は忘れたけれど(安定)

たしか

「きこえない」ことと「きこえにくい」ことの違いを、きこえる人が分かるのはやっぱり難しいよねという話から、

耳がわるいけど100パーセント失聴している訳ではない「きこえにくい」人が、普段のコミュニケーションでどんな風に情報をとっているのかという内容に流れたような。

 

先生いわく

きこえにくい人は、コミュニケーションするとき、常に、「あいまいな」情報を一生懸命自分なりに形づくろうとしている

のだと仰っていた。

そして、

あいまいなものを形づくろうとしつつも、その間にもどんどん追加されて飛び交う情報をなんとか追いかける、という行動もしないといけないために、普通に何の努力もなく耳できく人に比べて、エネルギーの消耗が激しいのだとも。

 

エネルギーを使う?

ああ、一心不乱に目でみんなのくちびるや表情を読むからかな?たしかに疲れるかも…

と思いきや、

「脳のエネルギー」なんだそうな。

 

脳のエネルギーをそこに使う

ということは、

言い換えると

脳が、ほかの作業に費やすキャパが足りなくなる

ということ。

 

だから、私自身もそうなのだけど、

今目の前で、なにが話されているのかを見出すことに全意識を集中してしまうから、

その会議中にメモをとるとか、決まったことを頭の中でまとめ直すとか、進行役を務めるとか、割に苦労する。

少人数の打合せなら、わりと自分からよく発言もするし、進行役となることも多い。

でも、部定例ミーティングのような10名以上の場だと、メモをとってもらっていてもなにがなにやら状態で、何か会話に参加したいトピックスでも話に集中してるとあっという間に終わってしまう。笑

 

以前から自分自身のそんな傾向は感じていて、

性格が大ざっぱだから、情報のとり方がざっくりしすぎているのかなとか、

なんでもまずは受けとめちゃうから、疑問を感じる力が弱いのかなとか、

ノートの取り方を工夫した方がよいのかなとか、

反省かたがた、いろいろ思考を巡らしてみたことも。

 

もちろんそういう要因もゼロでは無いのだろうけど、きこえにくいゆえの情報のとり方(=脳のエネルギーの向け方)が大きく影響しているのだと知り、安堵したんだ。

なんだ、そういうことだったんだなって。

だったら、人に比べて苦手だったりうまくまとまらないのは当たり前なんだなって。

それに、何かわたしに伝えたいときに、メモを書いたりメールの文面を指差したり、ちょっとした視覚情報を用意してくれると理解度とそのスピードが格段に上がって、後のやりとりがしやすくなる理由も納得した。

もちろん、これからも自分なりにいろいろ試してみようとは思うけど、ききながらうまく「できない」「考えにくい」理由がちゃんと科学的にもあるんだと知ることができてよかった。

 

きこえない人生、奥が深いな!

これだからやめられないのよね。笑

 

 

映画「レインツリーの国」感想

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以前、ちらっと触れた、「レインツリーの国」。

本日、三度目の鑑賞をしてきた。笑

そのうち感想を書きたいと思ってたら、
あいだに久しぶりの海外を挟んだこともあって
なんだか記憶があいまいに。

そこで、また観てみた。(真面目)

以下に書くことは、
あくまでもYUKIというひとりの人間の、個人的な感想。
幼少時から今に至るまできこえない人生を歩んでいるわたしの、生の声。
そう思って読んでいただければ幸いです。

※ ストーリー展開に触れない程度の感想ですが、一部、具体的な場面のネタバレ含みます


 

一回目。

はじめてこの作品を鑑賞しながら、
主人公の伸(玉森裕太さん)といっしょに登場する、感音性難聴のひとみ(西内まりやさん)がとにかく性格暗いなあ…と感じたわたし。

もしかしたら、中途失聴の人とかで耳のことを受けとめきれずそうなっている方もいるかもしれないけど、わたしとそのまわりのきこえない知人たちにはちょっと関係ない遠い世界かもしれない、そんな印象を持った。

だって、

わたしは、このきこえない人生を愛しているから。(重い)

もし今生まれ変われるとしても、きこえない属性をまた選ぶだろうから。

まわりの知人たちも、愛まではいかないかもしれないけど、後ろ向きになったり前向きになったりしながらみんな一生懸命日々を過ごしている。

私自身も、仕事をはじめ、生活全般、不自由はしょっちゅう感じるけれど、家族や友人や上司同僚などまわりの人に支えてもらいながら人との交わり関わりの貴さを感じて生きられることは幸せだから。

幼少時の言語訓練だったり、中高時代の人間関係上のきつい経験だったり、大学のときに出会ったきこえない仲間(手話仲間)ときこえる仲間(ダンス部)それぞれとのかけがえのない時間だったり。

きこえないことは正直きついけれど、なんとかなるし、なんとかするものだし、この映画のひとみさんはなんか甘いんじゃ・・・とむずむず。

これが、初回鑑賞時の素直な感想。

 

そして、日本語字幕付きで観た二度目。

字幕なしで一度観ている作品を
字幕ありで拝見してまず感じたのは、
世の中には、こんなに音や言葉が溢れていて、わたしたちの生きる世界は、こんなにも音声で彩られているんだということ。

率直に、この世界はなんて素敵なんだろうと思いつつ、

その一方で、わたしが普段「きいているつもり」の世界は、やっぱりどこまでも「きこえているつもり」にしか過ぎないんだということを改めて突きつけられて、頭痛もした。

もともとカンは良い方なので、残存聴力に比べて音声情報(の内容)をとるのが上手だと、言語聴覚士をはじめ、いろんな方に言われることが多いわたし。

現に、字幕がなくてもだいぶ理解していたつもりだった。
それでも、字幕がある状態で作品を観ると、当たり前だけれど『ここで顔は映ってなかったけど、こういう会話があったんだ』とか『BGMがうるさくて聞き取れなかったけど、こんなセリフ言ってたんだな』とかぐっと理解が進み。

だから、音に彩られるこの世界はやっぱり豊かで美しいなと感じいる一方で、音を理解しきれない耳をもつ自分に対する途方もないさみしさも心のどこかに襲ってきた。

毎朝補聴器を付け、
日中はひとの唇を読み、
思い通りにはきこえない耳を澄ませ、
一所懸命、音の世界を「見て」
一生懸命、音の世界を想像している。

それでいいのに。

もうそれでいいと諦めたはずなのに。

きこえているつもりで生きているけど、
それはあくまでも「つもり」であって
どこまで頑張ってもきこえる人とは同じになれないのだと
目の当たりに突き付けられると、なんだかさみしいなって。

そんなことを感じた、二回目の鑑賞だった。

 

で、今回、三度目。

今までも劇中いろんな場面で涙を流したけれど、今日は、自分でも意外な、なぜここで涙が出るのかよくわからないところでじーんときた。

それは、伸さんがひとみさんの耳に補聴器が付いているのを見て、はじめて彼女が「きこえない」人であることに気づく場面。

ひとみさんが難聴ゆえに意図せずに起こしてしまったある出来事に対して、「なにやっているんだ、人に迷惑かけて」と伸さんが声を荒げる。「すみませんでした」と頭を下げて謝るひとみさんと、そこに補聴器を見つけて「あ・・・」と息を呑む伸さんの姿。

どちらも誰もわるくないのに、ちょっとしたきもちのすれ違いで発生する爆発的な感情。

目に見えないハンディキャップであるゆえに、相手に伝えるタイミングやサポートのお願いの仕方はむずかしい。私も経験してきた分そこそこには心得ているつもりだけれど、やっぱり壁にぶつかることも多い。

映画鑑賞中は分からなかったけれど、今振り返ってみると、私自身も形は違えど味わってきたその経験の、むずかしさと、恥ずかしさと、悔しさが、一気に体内をめぐったゆえの涙だったのかなあと。

でも、なんか、そういうむずがゆい気持ちが自分の中にあることを認められたから、よかったなとも思う。気付かせてもらいました。(合掌)

あと、これは別に無理にポジティブにしているつもりはなく、上記のきもちと同時に感じるのは、(ひとみさんの耳がきこえないことが)ここで伸さんにちゃんと伝わってよかったなという安堵。

もちろん、ここでは単に耳がきこえないという事実が伝わっただけであって、
どんな風にきこえないのか、
どう話すとわかりやすいのか、
普段どんな気持ちを抱えて生きているのか、
などなど難聴に端を発するいろんなことは、このあと時間とともに理解を深めていくことになるのだけれど。でも、相手が耳がきこえないことを知らないのと知るのとでは全然違う。関係性の大きな一歩。

そんなことも感じながら、鑑賞した三度目。

これまでの2回はどちらかというと、きこえない当事者としてひとみさんに向ける視点が強かったけれど、三度目の今回は、伸さんの気持ちに触れられたな、と感じる場面もちょこちょこあり。

 

そして、レインツリーの国を三度観て気づいた自分の思いがまだもうひとつふたつ。。

なんだかもりだくさんで、感想書き終えられない。笑

しかも全然内容まとまっていない。笑

眠いので、ひとまず後日につーづく!

 

今日のひとこと:

映画「レインツリーの国」を通して、自分の普段感じていることを見つめなおせるし、こうして文章化(言語化)することで整理できるし、いい機会をいただいたなあとつくづく。

2015年秋冬のタイミングで、この作品を鑑賞できたことに心から感謝。

 

「レインツリーの国」

Rain Tree

 

今日、レクチャーの中で学生さんにも紹介した映画、「レインツリーの国」。

授業の後は、東京へ新幹線移動していたこともあり、

なんだか、いきおい余って、

日本語字幕が付くのは12/5(土)以降だと知りつつも、観に行ってしまった。

原作となった本のストーリーもおぼろげながら記憶もあるし、

まあとりあえず観てみようぜと思い切って。

 

この「レインツリーの国」は、

有川浩さんの同名原作小説を映画化したもの。

感音性難聴のひとみ(西内まりやさん)と、健聴の伸(玉森裕太さん)の物語。

 

顔のアップも多いし、全編を通して穏やかな雰囲気で、わりと内容はつかめた。

でも、日本語字幕付いた状態でももう一度観たいわこれ。

なんていうか、一度でも十分な充実感ではあるんだけど、

個人的にいろいろ考えることもあり、自身の内観を深めるためにも。

普段、映画を複数回見返すことはほぼほぼない人間なのにね。過去にあるのはあとにもさきにも「チャーリーとチョコレート工場」の1回きりである。DVDも買ったぐらいなぜか好きだった。笑

 

感想は、またあらためてちゃんと書くつもりだけど、

今日、観終わったあとにまず感じたのは、

生きていると、毎日、細々(こまごま)とした出来事もあるけど、

ひととの関わり交わりと、そこに息づく愛の中で生きている/生かせてもらっている現在(いま)って、それだけで貴いことなんだよあ

というしみじみとした味わい。

映画が終わって、街中を歩きながら見かけるすべてのひとのなにげない会話だったり表情だったりがなんだかほほえましくて。

今日は、日中、学生さんからあたたかさをもらい、

夜は、映画レインツリーから、なんともいえない心地よさを受け取り。

はーーーーー(大の字)(深呼吸)

 

ちなみに、個人的に興奮してしまったポイント。

伸が聴覚障がいについて知ろうと、関連の本を読み漁る場面。

図書館でも家でも映っていた一冊が、よく知っている書籍だった。

聴覚障害の心理」だったかな。

わたしの研究テーマ:きこえない人のアイデンティティについても触れている。

20歳頃のときに大学の図書館かどこかで見つけて、聴覚障害者のアイデンティティの考え方をはじめて知って。その後の自分の研究テーマの方向性づけや論考の起点となったともいえる一冊。

すぐに『あ!』と気づくあたりが、われながらマニアックである。笑

 

 

手で話す(3)

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「えっ、YUKIさんって手話できるの??」

ときどきまわりの方に訊かれる質問。

今日も打ち合わせしながら、たまたまメンバーの皆さんとそんな会話に。

「そうです、できるんですよ〜」と私。

「じゃあ、『ちょっと待って』ってどうやるの?」

(試合中によくやるタイムのTをつくりながら)「こんなんじゃない?」

「いやあこうでしょ」(野球のサインを超速にしたような動き)

「あごの下に手を添えて『待つ』をするんです、これ」

と私がやってみると、みなさん揃って『待つ』の手話。

見ようによっては、冒頭画像のようなちょっとぶりっこの仕草なので、なんともかわいい。笑

『待つ』の手話表現は、この画像の片手バージョンに近いと思っていただければ。

 

でもまあ個人的には、形にとらわれず、

「ちょっと待って」という気持ちが動作と表情で伝われば十分だと思うので。

その点では、こちら↓の渋めのお姉さんもある種、手で話す達人でなかろうかと。

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ぶりっこ風に目で訴えかけるもよし、

渋めに眉間の度合いでやんわり伝えるもよし。

 

それにしても、

手話ということばひとつとっても

日本手話(手話特有の文法に基づき話される手話)や

日本語対応手話(通常の日本語に対応するかたちで話される手話)、

さらに海外で使われる「国際手話」や各国の手話などいろいろ。

 

「手話」はひとつの言語だし、

ある程度基本を備える必要もあるかもしれない、

でも結局、「手で話す」ことの原点は、渋めお姉さんのような表現にあるんだろうなと。

伝えたいきもちを、手をはじめとする身体と表情を使って表現する。

相手に伝わるまで、相手の反応をみながら、相手と楽しみながら。

普段、ことばによるコミュニケーションを当然のように行っているわたしたちだけど、

何かを伝えて、また、何かを伝えられる、

そのプロセスは単なることばの交換だけでなくて、

わたしはそこにどんな思いを込めて届けているか、また、相手のどんな思いが込められているのか。

そこに思いをはせると、コミュニケーションはとてつもなく楽しいし幸せな行為だなあとつくづく。

 

感音性難聴だと、いつだってことばの内容を100パーセント理解するのは難しい。

だから言語情報だけに特化すると、各場面でおおかた7パーセントぐらいしか取れていない気がする。

あくまでも個人的な感覚だけど。

一方で、表情や雰囲気等の非言語的情報を察しやすいからか不思議と話に付いていけたり。

「YUKIさんって、一体どれぐらい話が理解できてるの?」

これもときどきもらう質問。

うーん、難しいけれど、今のわたしならこう答えるだろう。

「たぶん7パーセントぐらい、でも気持ちはいつも100ですかね〜」

いつだって相対(きこえる皆さんときこえない自分の比較)と絶対(きこえない自分の揺るぎない軸)を往復している自分の感覚、きらいじゃない。

昔はこの感覚を、「どちらの世界の住人にもなりきれない」さみしい自分だと受けとめていた時期もあったけれど。

「どちらの世界の住人にもなりきれない」ことは、イコール、「どこに住むかは自分で決められる」んだよねきっと。

あああ楽しみ。(口癖)

 

今日のひとこと:

手で話すシリーズ、思ったより続くなあ〜

書いているとそれにつながるトピックスが、日常生活で偶然起こるのも面白い。

プランドハプンスタンス!(呪文風に)

 

手で話す(2)

heart

 

思いっきり脳を休めた週末は、なかなかことばが出てこないけれど思うがままに。

 

感音性難聴のわたし。

補聴器を付けているけれど、音声情報だけでは「きく」ことは難しい。

なので、「見る」こともセットにしてはじめて声や音を「きく」ことができる。

 

そして、こんな属性だから感じられる幸せも多い。

その1つが、

まわりの方たちが、きこえないわたしに一生懸命伝えようとしてくれる姿。

はっきり口を動かしてくれたり、

口元が見えるようにとわざわざマスクを外してくれたり、

いつも以上に身振り手振りを増やしてくれたり。

 

会議や打ち合わせでも、座る位置だったり、

「大丈夫伝わってる?」とふと気にかけてくれたり。

 

高校時代からかな、まわりに、指文字や手話を覚えてくれる友人や先輩・同僚も。

はじめて覚えた手話が、「気をつけて」な大学時代の友人もいたな。笑

後ろから近づく車の音がよくきこえないわたしは、彼女にとって危なっかしいらしく

道路をいっしょに歩きながら、

しょっちゅう「ゆき、気をつけて!」と声かけてくれたっけ。

冗談まじりだったけれど、本心で心配してくれてたんだろうなあと今思う。

 

あらためて、これまでに出会ったひとたちと、

数え切れないほどの「ことば」を交わし、

同時にたくさんのあたたかい「きもち」を頂いてきたんだなあとほっこりする。

昔は、それをどこか素直に受け取れないもうひとりのわたしがいた気がするんだけど、なんかいつの間にかいなくなったなー。笑

家族もそうだけれど、耳がきこえていれば普通になんでもなく通じることが決してそうではないので、やっぱり自分だけでなく、他のひとにも不便をかけていることがどこか申し訳なかった。

でもなんか。

きこえないわたしと話すことが、不便だなと思ったらその人は離れていくわけだし、

わたしと話すことが、楽しいと思ったらその人はいてくれるわけだし、

シンプルでいいんじゃないかなって、いつの日か思えるようになってきた。

ごちゃごちゃ考えたらきりがない。

世界は、自分が思うより、ずっとシンプル。

自分が今いるこの瞬間がありがたいものなのだと感謝するだけ、それでいい、それがいい。

 

 

今日のひとこと:

男の子の伝えていることばは、「I LOVE YOU」でした。
英語の指文字 I(小指)+L(親指と人差し指)+Y(親指と小指)をすべて合わせたサイン。うーんことばだけだと説明が難しいので、詳細は ”手話 I LOVE YOU”とぐぐってみてください。(適当)

ジャイアンみたいなこの子がこの表情で、愛してるを表現していることにじわじわきてしまう。

 

 

手で話す

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昨日、仕事終わりに、社内の手話サークルに顔を出してみた。

毎回行くたびに

『わあ〜、YUKIさんひっっさしぶり!』

と言われてしまう安定のゆうれい部員。

ゆうれい部員というか、宴会部員というか、宴会部員。(認めた)

小さい頃から声で話す訓練を受けたし、手話を覚えたのもほぼ成人してから。

普段の生活で手話を使う機会はあまりないわたしだけれど、ふとしたきっかけで手話でコミュニケーションする機会があると、とても気持ちがリフレッシュする。

仕事は、いわば左脳寄りの行為。

ロジックで考えるとか言語を秩序立てて用いるとか理性的論理的な世界。

それに対して、

手話は、右脳寄りの行為。

自分の身体とそのまわりのスペースをどう使うかとか、感情をより豊かに表現するとか感覚的空間的な世界。

脳をリフレッシュさせたいときは、この左脳と右脳を行き来するようなアクションを入れると良いらしい。たとえば仕事でデータ集計に集中した日(=左脳をおもに使用)は、ものの整理整頓をする(=右脳をおもに使用)とか。

だから、仕事終わり(=左脳使用)に手話サークル(=右脳使用)ってのは、ちゃんと理にかなったリフレッシュ方法なんだねおもしろい。

みなさん、もし手話に興味のある方は随時部員募集中ですのでどうぞ!

と、ゆうれい部員なのに宣伝してみるの巻。

 

そんな感じで、久しぶりに手話サークルに出没したわけだけど、

帰り道、以前よりはリフレッシュ度がそんなに高くないな、と感じた。もちろん楽しかったんだけど、昔寄ったときのすごく開放された気持ち良さまでには至らず。

サークルには、実質30分ぐらいしかいなかったからかな?と思いつつ、

もう1つ有力な説が浮上。

それは!(ジャジャジャジャン)

 

わたし自身が、最近仕事をするなかで、右脳も頻度高く使うようになったから。

 

ふーむ。たぶんこれ、いい線いってる説だと思う。(自画自賛)

 

基本的に仕事って左脳の世界だけれど、そのなかで右脳をなるべく使うとはどういうことか。

以前ちらっと書いたけれど、

ここのところ、

いつもの「(施策や活動を)どうやるか(How)」だけでなく、

「この取組みを通じて、そもそも何を実現したいのか(What)」「なぜそれを進めるべきなのか(Why)」といった具合で根本も意識しようと努めており。

ノウハウやハウツーも大切だけど、そもそも、根底にある信念や大切にしたい思いはなんだっけ、と立ち返る。

もしかしてこの、 Howだけでなく、WhyやWhatをおさえる行動は、その施策なりプロジェクトなりをうまく動かすだけでなく、動かす人の「脳」にも好影響を与えるということなのかな。

言い換えると、

左脳優位といわれる仕事生活でストレスなり行き詰まり感をおぼえたなら、

プロセスの途中で息抜きにイラスト描いたり、書類の整理整頓したり、プレゼン資料のどこを変えるとより伝わるかとことん練ってみたり、といったような、おもに右脳を使う行動を意識的に取り込めばいい。

左脳と右脳のあいだの脳梁を往復させることで、脳が元気になる。

これは別の日に触れた、THINK/FEEL/TASTEのバランスとか高速回転の感覚に通じるな。

さしずめ、外界から何か情報を受信してTASTE、

その後、左脳:THINKと右脳:FEELをうまく切り替えつつ自分を活性化するという感じなのでは。

たまたまかもしれないけれど、そんな感じでうまく脳を使えているときに手話サークル覗いたから、以前ほどの「リフレッシュ度」は感じなかったという。個人的解釈だけど。

なんか、団子式にうまいこと気づきが連なってておいしいな!(興奮)

 

それにしても、もし右脳中心の生活が送れるならストレスはそんなにたまらなさそうだけど、それはわたしが右脳人間だからそう思うのかな〜。でもきっと、右脳人生だけだとやっぱり物足りなくて、たとえば日々ふと感じたことをこうやって左脳でがんばりながら言語化してみるという一連の作業が楽しいんだよな、ひとりごと。

 

手話とその周辺の表現性について書くはずが、なんか謎の方向に。

まあいいか。続きはまた次回。(逃亡)

 

今日のひとこと:

さてこの男の子は、なんて言っているでしょう?
ヒント・・・わたしからあなたへ、滅多には言わないけど伝えたいことば。ふふふ

耳が鳴る

guitar

一日の終わり、補聴器を外してお風呂に入ってほわーんと弛緩すると、

待ってましたとばかりに 耳鳴りが始まる。

わたしも、もう慣れたもので、「ハイハイ。」というきもちでそれを聞く。

小さい頃は、あまりなかった気がするけれど、

耳鳴りをはっきり自覚し始めたのは大学生の頃かなたしか。

ひとり暮らしをはじめて、補聴器を付けずに生活する場面が増えたことも関係ありそう。

 

ちょうど、家に NHK「きょうの健康テキスト」があり、耳・鼻・のどの病気についての特集が。

耳鳴りについても載っているのでちょっと抜粋:

⚫︎耳鳴りの仕組み(2015年1月号 p. 55より)

1)耳に入る情報の減少
↓ 耳はさまざまな音を脳に伝えているが、難聴になると耳から入ってくる情報が少なくなる。

2)中枢神経の抑制が利かなくなる
↓ 耳から入る情報が少なくなると、脳の聴覚中枢にある神経細胞の興奮を抑えられなくなる。

3)一部の細胞が異常に興奮する
↓ 抑制が利かなくなることで、聴覚中枢の神経細胞の一部に異常な興奮が起こってくる。

4)耳鳴りが起きる

 

ほーー、なるほどなー。

耳鳴りって

いわゆる音が「きこえにくい」状態を、

外界からのインプットが「足りない」ものと解釈し、

内界でその不足を補おうと、神経細胞の興奮というかたちで活動を起こす。

そしてそれを「耳が鳴っている」と、身体で感じている状況なのね。

身体って、体内だけのメカニズムと思いがちだけれど、

無意識に外の世界とのバランスもしっかり捉えているところが面白すぎる。

それにしても、毎晩細胞が興奮しているらしいわたしの身体は大丈夫なんでしょうか。

お疲れ様です、わたしのからだへ。(深々)

 

大学生活を送っている頃、家で補聴器外してのんびりしているとき

ふときこえてくる「耳鳴り」は、当時音楽を聴いて楽しむ習慣を持っていなかったわたしにとってちょっとした「BGM」だった。

きこえないわたしが、唯一、補聴器を通さずに味わえる音、

それが耳鳴りだったから、なんとなくいとおしく感じていた。

本当は聴くための耳なのに、わたしの耳はそうじゃないんだなというさみしさも込めて。

(会社に入ってからはそうでもなかったけれど。

疲れていると、いとおしいどころかうっとおしい時もあるから。

まあどんなに耳鳴りがしていても眠気がきたらすぐ寝れるのび太体質なので!)

 

耳鳴りがすることを英語では、

My ears are ringing.

または、singingとかhummingと表現するらしい、いいね。

同時に、日本語の「耳が鳴る」という表現もけっこう好き。

わたしの個人的な感覚だけど、たしかに「歌う」というよりは「響く」ものなので。

ギターの弦を弾いたときに、内にこもるような余韻の響きがそれに近いかもしれない。

耳鳴り、とすっかり名詞化されたことばだけど、

耳が鳴る、とちょっと動詞にしてみるとことばの本質がそこに見えてくる。

たぶん、今夜もわたしの耳は鳴る。

 

今日のひとこと:

耳鳴りの醸し出す「音」をオノマトペで表してみたかったけど、うまく絞り出せず。
ぼーんでもなく、じーんでもなく、つーん、ぶーん、、、意外と難しいこれ。

まどさんとリンゴとわたし

water droplets on green leaf

思えば、小説家で、特に好きな方というのはいないのだけど、

詩人のまどみちおさんは、小さいときからかなり好き。

一時期、谷川俊太郎さんと若干混同していたことはナイショである。

まどさんの作品で、次のような詩(うた)がある。

 

リンゴ

まど みちお

 

リンゴ
リンゴを ひとつ
ここに おくと
 
リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ
 
リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない
 
ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 

わたしの個人的な感覚なのだけれど、まどさんの数々の作品は

「世界を 切り取る」

というよりは、

「世界を 抱きしめるように祈るように見つめる」

その結果、生まれ出てきたもののように思えて、

そのどれにも、まどさんの深い愛情と畏敬の念を感じる。

 

「あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」

という響きに、わたしたちはリンゴの輪郭をくっきりと感じられる。

ものがそこに「ある」ということは、

ものが作り出している輪郭の外側には、それはもう「ない」ということ。

わたしがそこに「いる」ということは、

わたしの身体が作り出す輪郭の外側には、わたしはもはや「いない」ということ。

それぞれの存在のかけがえのなさ、貴さのゆえん。

 

今朝。

いつものようにぼんやりと起きて、ぼんやりと太陽の光を浴びて、

ぼんやりと鏡に向かいながら、ぼんやりとなにやら考えていた。

わたしはいつも、起きてから洗面と身支度を済ませるまでは、補聴器を付けていない。

(これについては、脳が起きてないから、まだ外界の刺激を受けたくないがゆえのわたしなりの習慣なんだろうな〜というゆるい自己分析。)

 

そして、ふと思い至る。

補聴器を付けていないときって、頭の中でなにか考えていると、

やがて、ことばがぐるぐると身体の中を縦横無尽に駆けめぐっていく。

それが、

そのあとに補聴器を付けた途端、

たとえば台所の、母がトントンと使う包丁の音とか、

目の前でトプトプと流れる洗面台の水の音とか、

後ろでゴーゴーまわる洗濯機の音とか、

外側から一気に、きこえにくい耳なりにさまざまな音が入ってくる。

いろんな音やことばが、自分の中に一気になだれ込んでくる。

面白いもので、このとき、

補聴器を付けるまでは、内界だけでゆらゆら漂っていた自分が、

補聴器を付けることで、聞こえてくる音やことばによって、

外の世界と自分が「つながる」

そんな感覚がはっきりとある。

 

内界でぐるぐる回っていた声にならないことばが

するりと自分の外に出て、

外界でくるくる舞っていた音たちが

ゆるりと自分の中に入ってくる。

そんな感じ。

それまでは、自分より内側の輪郭を味わっていたのが、

自分と外の世界の輪郭を突きつけられて、目が覚めていく。

そんな感じ。

 

まどさんが詠んだリンゴの輪郭と、

きこえないわたしが、毎朝ふと感じるわたしの輪郭。

 

今日のひとこと:

幼い頃からなんとなく感じていた感覚が、ふと腑に落ちたそんな朝だった。

なんだかうれしくて心ここにあらずだったからか、着ていた洋服の上が横じま、下が縦じまというわけわからない組み合わせになったのでした。みなさん気づいていませんように。笑