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みそ汁、台風、シマオ

 

日曜の朝。

 

ふわっと目が覚めるも、

なんとも体温低め。

テンションもどんより低め。

 

今週(月曜~土曜)は

連日の研修、

大学での講師業、

採用イベントで休日出勤対応と、

自分的にはちょっと目まぐるしい感じだった。

 

ベッドの上にむくり起き上がり、

ぼーっとすることしばし。

 

「なにしたい?」

と心にきいてみると、

「みそ汁!」

という、文法無視した全力回答が。

 

さっそく

寝起きの無表情のまま

 

鍋に水をはり、

だしをとり、

黄金色の美味しそうなスープによだれ出ながら、

凍り豆腐をお湯で戻す。

 

にらをざくざく切って、

小松菜もしゃきしゃき切って、

ぽんぽんと鍋に放り込む。

 

野菜が鮮やかな緑に変わった

タイミングで火を止め、

味噌をじゅわっと溶かす。

 

そして食卓で、

湯気がのぼるお椀を両手で包み、

こくっと一杯。

 

う、うまい。

い、いきかえる。

 

 

気がつけば、

目が覚めたときの低飛行ぶりはどこへやら。

ほんわかいい気分に。

 

やっぱり朝は、

まずはからだを中から温めるに限りますね。

 

 

それにしても

台風、近づいてますねえ。

 

日中すこし出かけて、

どちらかというと毎度楽天モードで

台風を出迎えるわたしも、

今回のはけっこうな威力じゃ・・・

と察する(遅い)

 

ひとまず、

食材はお米含めて一通り買い出したし

ベランダの植木はすべて中に入れたし

物干し竿の具合も確認したし

明日の打ち合わせ予定もすべて変更して

在宅勤務体制万全だし。

ししししし。

 

そうだ

植木topicついでに、

10月に我が家にやってきた

シマトネリコこと

シマオくんがけっこうな成長ぶりでしてね。

 

秋なのに、新芽が止まらなくて

なんともかわいいし頼もしいのですよ。

(おやばか)

 

シマオをはじめ、

どの植木もどの花もそうだけど、

 

仕事立て込んでいて

会社と家の往復になる日々でも

部屋に戻ったとき

まっすぐ胸張って伸びているとことか

新芽のなんとも柔らかい表情とか

「いのち」に癒される。

 

とくに、東京はやっぱり

ヒトや建物多くて無機質寄りだから余計に。

 

みそ汁、台風、シマオ。

なんの共通項もなさそうだけど、

今ふと

どれも有機というか、

エネルギー体だなあと。

 

躍動しているもの。

風が地が通っているもの。

いのちあるもの。

 

結局、

全部まるっとひっくるめると

わたしはいのちが大好きなんだなあと!

 

切ない別れを経験して

たくさん泣いたのも10月だけど、

あの10月があったから、

いのちが大好きで大切なのだと

今まっすぐ前を向いて

笑って言えるわたしがいる。

 

みそ汁、台風、シマオ。

ただの週末つれづれ日記が

思わぬところに終着してしまった。

なははははは(逃亡)

 

最後の講義

 

ランディ・パウシュ教授の「最後の講義」。

 

以前、NHKで放送されてた録画を

レコーダーに見つけ、

なんとなく再生しはじめる。

 

CMU(カーネギーメロン大学)かー

パウシュ教授のこの講義がされているこの頃、

ちょうど同期がここに留学してたかもなー

わたしもこの頃は、留学施策担当してたよなー

 

なんて思いながら

お湯をすすりつつ

のんびり見いる。

 

そして最後、

パウシュ教授の愛あふれるサプライズが。

わたしも思わず、

時と場所を超えてもらい泣き。笑

 

 

途中、パウシュ教授のことばとして

こんなメッセージが紹介される。

 

Be good at something,

it makes you VALUABLE…

Have something to bring on the table,

because that will make you more WELCOME…

-Randy Pausch

 

得意なものを持て。

きみは、価値ある存在になれる。

アピールできるものを持て。

きみは、もっと認めてもらえる。

 

いいことば、だねえ。

 

ちなみに

上の日本語訳は、

番組のテロップに出たそのままなのだけど

個人的には

 

得意なものを持て。

きみは、価値ある存在になれる。

アピールできるものを持て。

きみは、もっと喜んでもらえる。

 

が、よりしっくりくる気がする。

 

自分がひとのためにできること、

そしてまわりを幸せにできること、

そんな力をぜひ伸ばしてほしい、

というメッセージを講義に感じたから。

 

こんなところに目(意識)が行くあたり、

わたしはやっぱり

ことばにこだわりたい人間なんだなとつくづく。

 

パウシュ教授が、

いのちを懸けて

最期まで

自分の得意なこと、好きなこと、そしてひとの役に立つこと

をやり遂げられたこと。

 

わたしも、

いのちを懸けて

やっていきたいこと・やっていくこと・ひとの役に立てること

の輪郭がくっきりしてきた気がする。

 

今まで歩いてきた道の先に、

また、新しい景色が見えてきた。

 

生きるテーマ、

わたしのいのちのテーマ。

 

 

人生、まだまだ本番!(キラリ)

 

 

秋の冷たいしとしと雨。

秋空の下、ふわっと風に薫っていたキンモクセイも、

今週末は、心なしか静かな感じ。

今年も、きんいろの空気をありがとう。

 

風邪気味の方も多いですね、

あったかいお湯のんで

早めに治りますように。

 

さて、わたしもお湯のもう。(飲んでばかり)

 

 

ただ、○○向きに。

tiger

前向きでもなく、

後ろ向きでもなく、

ただ

○○向きに。

 

↑  今、なんとなく大切にしていること。

 

5年前ぐらいまでのわたしは

どことなく「前向き」のかたまりだった。

何があったっておっぱっぴー(©某よしおさん)ぐらいの、底抜け能天気な。

 

もちろんそれなりに悩むこともあったけど、

ケセラセラで

どこかそんな弱気な自分を笑い飛ばしていた。

 

そして、時は過ぎ。

自分的「青の時代」に突入。

ブルーゾーンとも呼びたいきもち。

 

例えるなら、

ハワイの常夏のあっけらかんとした海ではなく

すこし冷えも深さも残す伊豆の海、

そこに漂っているような日々。

 

うーん、だいたい5年ぐらいも漂っただろうか。

全部がぜんぶ、ネガティブな期間というわけではないけど、

それでも自分がこの5年、どちらかというと「後ろ向き」だったという自覚はある。

 

つくづく生きるって面白いなあと思うのは、

この青の時代、

しかもけっこう濃い青の時代(笑)、

それは、もっと大きな前を見つめるために、

必然で起こったんだということ。

 

もしも今まで通りの安穏とした生活のままで

自分的にヨシとするなら、

この「後ろ向き」期間は訪れなかったなと。

長いながい時間を経て、今、そう思うのです。

 

仕事を離れて、修学(研究)のために休みに入ったことを

当時のわたしはのんきに構えていたけど、

やっぱりあれは結構なチャレンジだったなあと今頃気づく。笑

思えば、あそこがひとつの転機になった。

 

仕事を離れて、社会にぽつんとひとり、何者でもないわたしになった瞬間、

わたしが生きるテーマ、

わたしが生きる動力、

わたしが生きるそのいのち、

無自覚だったこれらのことを突き付けられた。

 

安穏と生きることももちろん幸せだけど、

あれ?わたし、何がしたかったんだ?

そんな疑問が、噴出した。

そもそもわたし、なんのために生きてるんだ?

愛犬の死も経験し、

哀しさのなかに、疑問が交錯する。

 

あれから5年。

今はまたもとの職場に復職して、

(ありがたいことに戻らせて頂いて!)

休む前とは違う、仕事の経験もできた。

 

大きな疑問を前に、立ち止まってしまった日々。

なんとか卒業して、以前のように仕事に奔走する日々。

でも、

というか、

だから、

以前よりも、

もっと「前」を意識するようになった。

夢や目標とか、

自分らしさそのものへの意識というよりは、

自分が自分らしく歩む上で大切にしたいことはなんだっけ、というそんな問いかけを。

 

自問するなか、

まず気がついたのは、

自分のなかの色んなもの。

「ポジティブ」「前向き」であることをヨシとしてきて、地でいってる部分と、ほんの少し無理をしてきた部分と。

ほんの少しの無理も、30ウン年経てば、けっこうな量になる。

 

あーわたし、これがイヤだったんだな。(でもイヤとは言えず頑張った)

あーわたし、この時本当は泣きたかったな。(でも涙をのんだ)

あーわたし、相当怒りがたまっていたな。(でも笑顔でいいよいいよと言ってきた)

 

そんなきもちを、

ひとつひとつ、

紐解いてきた青の時代。

 

それらは、一見静かだけれど、

同時に目まぐるしい感情が走っていて。

葛藤と苦悩と、切なさやるせなさと。

でも同時に、

ひとつひとつ、「そうだったね」と気づき認めることによって、

自分自身の人生へ

あらためて愛やいとおしさを感じる時間にもなった。

 

過去の自分のなかの薄暗い部分を味わった分、

つまり後ろを向いた分、

前を向くことの眩しさや喜びを

心から実感できたなって。

 

後ろ向きをとことん味わい尽くすと、

また、向き直りたくなるんです。

いやあーいいねえ人間って。(まとめすぎ)

 

で、ようやく

冒頭のことばにつながるわけですが。

 

前向きでもなく、

後ろ向きでもなく、

ただ

ひた向きに。

 

それだけで、十分、

わたしたちは生きている。

もう前を向いている。

だから、むりに前向きにならなくていい。

時々、後ろを向くのもそれはそれで必要な時間。

どこを向いていても、大丈夫。

ただ、今を、ひた向きに。

 

この人生に、いのちに、ありがとうございます。

 

週末わっしょい

goron

ごろーん。うれしい週末!

 

まめに更新しますと宣言すると、

仕事が途端に忙しくなる現象は、なんなのさ。笑

 

はたまた、

「何かがこれから忙しくなる」という予感が

「何かに(この場合はブログ)せっせと取り組まないと」という気持ちに駆り立てるのだろうか

なーんてことを思ってみたり。

 

よくわからないのだけど、

でもたしかに直感ってありますな。

 

それにまつわる小話をひとつ。(誰)

 

今日はこのあとお友だちに会ってランチなのですが、

日程を決めるときに

はやく会うならこの日だけど、

「なんとなく」今日がいいなとリクエストしたわたし。

結果、今ちょっとわたしが困っていることについて

いちばんよく対応を知っているのが彼女なので、

今日会えることになっててとても助かったという。

 

もっと言えば

はやい方の日程で会ってても

まだその「困った」現象は発生しておらず

関連する物事も動いていないタイミングだったから、

やっぱり今日でよかったという。

 

すべてはちゃんとまわっているんだなあ。

そして

そんな風にまわっている日々のなか、

そのど真ん中にいるのは「わたし」であるという嬉しさ。

これにつきる。

(主体性を発揮するとかいうのは、おそらくこのあたりの感覚なんだろうね)

 

日々一生懸命営んでいるわたしのからだと、

毎日一所懸命はたらいているわたしの脳と、

常々そこに流れているわたしのこころと。

 

“思考”が行動をうむけれど、

“感動”もまた、行動の原点なんですよね。

静かな水面に一滴たらしたときに

静かにその周辺に波及していくように、

何かがまわっていくときのまん中には

なんらかのエネルギーがあるわけで。

 

いまのわたしを支えている、

「インスパイアされたことば」

「訳もなく心にじーんとくること」

「大笑いしたこと」

「なんとも幸せだなあと感じたこと」

はなんだろう?

 

それをちゃんとポケットに入れておこう、

日々生きるわたしから、波及できるように。

 

今日のひとこと:

今日の内容にタイトル付けるのむずかしいなーと頭をひねった結果、こんなありさまに。笑

 

 

Just on My Road

oshiruko

ここ数年は

お雑煮お代わり人間だったけど、

今年は

お汁粉が美味しくてぱくぱく。

 

さて、

昨日はモノポリーで破産したため

ふてくされていたわたしですが、

今日はウノが絶好調のため

ごきげんなわたくしめであります。

初詣効果かしら?

どうも、ウノの神様がおりてきているようだ。笑

 

2017年、どんな年にしよう。

歩きたい道。

進みたい道。

拓きたい道。

 

数年前までのわたしは、

それらの道は

仕事を変えるとか、あるいは、また新たな勉強を始めるとか

そんなアクションを機に

新たな進路を目の前に一本、また一本と増やしていくイメージを持っていたけれど。

 

新たな道を見つけるのでは、なかった。

 

わたしたちはもう

とっくにそこに立っていて、

目の前にそれはまっすぐまっすぐ延びていて、

ただその自分の道をどのように「歩みたい」か、

それだけでいいのだと。

 

仕事の道とか、

学校の道とか、

資格の道とか、

家庭の道とか。

昔は、

これらのさまざまな「道」を並行して歩み、

それらを総合して人生を形づくるような感覚だったのだけど。

 

今は、

「道」そのものはオリジナルの一本道でよくて、

その道を、日々、自分らしく歩むことが、

道、つまり、人生を創ることであるんだなって。

 

ということは、

何かを選択することは、

道を決めることではなく

どのように歩くか。進むか。を決めること。

 

たとえば

今のわたしが大学に行くことを選択したら、

それは

研究者の道を選ぶことではなく、

人材育成の仕事をしながら、何か研究テーマを深掘りするという道を新たにつくること。

たとえば

今のわたしがまたダンスを再開したなら、

ダンスを趣味にする新たなひとつの道ができるのではなく、

あるひとつの道を歩んでいるわたしがもっと軽やかにステップを踏めるようになり

はたまた

ダンスをしていることでまた違う人とのご縁ができて、道に拡がりがでるかもしれない。

そういうことなんだね。

 

なぜかは分からないのだけど、

わたしは、いつの間にか、

「道」とはいくつもあるもの

「道」とは選ばないといけないもの

「道」とはそのときそのとき決めて行くもの

というイメージが出来上がっていた。

 

もちろんそういう見方をしていてもよいし

10代や、20代前半の頃は

たくさんの道を歩いてみることが

あとあと可能性を広げることになるかもしれないけれど、

今のわたし(30代たけなわ)は、

自分をその見方や歩み方から解放し

卒業するときがきたみたいだなって。

 

目指すビジョンに向けて、

意思を込めて、一歩を踏み出す。

感謝を込めて、歩みを進める。

わたしの道を、わたしらしく歩く。

 

大切なことは、

どんな道を歩みたいかではなく、

どんなわたしがこの道を歩むか。

「道」も、「わたし」も、わたしが決められる。

既成のものはない。

自由なわたし! 自由な道!!

 

ちょうど1年前の今頃、

Road to 2017 と表現したこの道。

ひとつの節目を迎え、

さあどんな顔して歩こうかな。(にこにこ)

 

クリスマスと冬至と今年の漢字。

Merry_Christmas

うーん、クリスマス。

ベリー・メリー・クリスマス。

 

ということは、

あと1週間もすれば、新年、2017年!!

ひゃっほう。(歓喜)

 

今年は、

秋以降はあっという間に過ぎたような気もしつつ

春夏の自分を

遠いとおい昔の思い出に感じるぐらいには

濃く・深く・長くの三拍子揃った日々だった。

明るい意味でも、暗い意味でも。笑

 

だから

年を越せるということが、

例年になくなんだかうれしいのだ。(バカボンのパパ)

 

先日水曜日に迎えた冬至も、

暦によれば

『一陽来復して陽気日々に長じ日も漸く長くなる陽気の始めて生ずる時なれば身を動かさず静にして微陽を養ふべし』

と、

陽の気に転じる節目のときと記載あり。

 

うん、はじまりのとき。

人びとにとって、そして、地球にとって、

今まで蓄えてきたり細々とつないだりしてきたことが、

なんらか発展したり陽の目をみたりする時期になるのね。

切り替わる、と。

 

皆さんそれぞれに、今年一年を漢字で表すと、

どんな字なのでしょうか。

 

わたしは

「整」

これに尽きるかなあ。

 

部屋のもようがえやら整理整頓にはまったり、

体調崩して一生懸命整えようとしてみたり、

振り返ると、

何かしら整えていたなあって。

 

この漢字、今までの人生ではあまり出てこなかったなー

それだけ新しい日々を過ごせたのね、うん。

 

この週末も

なんとなく書類中心に整理中なのですが、

出てくるでてくる、懐かしい資料。

 

そこには

大学でお世話になった先生の、

嬉しいはなむけの言葉などもあり

思わず目頭があつくなったり。

 

整える、ということは、

リセットするというよりは

これまでの自分の歴史とその歩みを振り返り、

また、新しい道を歩むために再構築する、

ひとつのフェーズなんだなと実感中。

 

がんがん進む気力のない時期って、

誰しもあると思う。

そんなとき、

焦って

左脳であれこれ将来を思いめぐらすよりも、

ひとまず深呼吸して

右脳でいままでの自分の経験や幸せなことに思いをはせることが、

結果として、

より笑顔多い「今ここ」とその先の日々につながるような。

 

うん、だいぶ整いました!  あなめでたや。

 

来年、どんな年にしようかな。(にやり)

 

 

高速列車に乗りながら

orange_flowers

道みちに、セミの亡骸がころころ。

夏が終わった、ねえ。

 

今年も夏を盛り上げてくれてありがとう、

と思いつつ、避けながら歩く。笑

わたしには、セミの鳴き声はきこえないけど、

きみたちやっぱり夏の立役者なんだねえ。

 

セミの話をもうちょっとすると(笑)、

亡骸をあちこちで見かけるけれど、

割に、というか、ほとんどは

仰向けで転がってるのがまたおもしろい。

なんか『終わりました~』感が満載じゃない?

つられてこちらも、

『さようなら~』『お疲れさま~』

そんな気分にさせられる。

何気ない道みちのセミの、そんなことにじわじわきている、最近のわたしでした。

 

ここのところ、

いろいろ面白いひらめきはあるんだけど、

ぜんぶ生活上動いているときにおりてくるので、

こうやって、一息ついて書いてるときには

内容をきれいさっぱり忘れているという。笑

 

今日はそのなかで覚えていることを、

ひとつふたつ(いくつだ)、

自分のメモがてらに。

 

わたしは、いわゆる高速列車に乗って通勤している。

電車のなかでは、

本読んだり、

仕事したり、

でものんびりぼんやりが最近はいちばん多い。

 

このまえ、仕事終わりに列車に乗り、

座ってほっと一息。

さてなにしよっかなー

と、暗くなりゆく夕どきの窓の外に目をやる。

 

そしてこんなことに思い至る。

 

これは高速に前にすすむ列車。

だから、たとえぱ

自分が前にすすむための勉強だったり

自分がなにかをすすめるための仕事だったり

自分が次に取り組みたいこととそのコミュニケーションだったり

そんな作業をすると、

すでに自分の身体が実際に高速で「すすんでいる」から

進みも劇的にはやいんじゃないかなあ。

 

だったら、折角のこの時間、

もっとなにか前向きなことに使わない手はないよなあ。

 

なんてことをふと。

 

おまけにもうひとつ。

これはたしか、とある日の朝に得た気づき。

 

高速列車のなかで、

いわゆる”回顧”に浸っていると

身体がぐんぐん後ろに引っ張られる感覚がある、

という発見。

 

どういうことかというと

たとえば

『そういえばあのとき、こう言えばもっとよかったかも』

『あの場面で、なんであの人はあれをしたのかな』

『そうかそのやりかたもあったなー』

などなど、

起こったことに対して省みるとき

意識は後ろ(過去)を向いている。

 

向いている結果、

前へ前へと進む力に満ちている

高速列車のなかでそのようなことを思っていると、

身体がどんどん椅子に沈み込む。(気がする)

 

過去って、いわばもう過ぎ去ったことなのに

そこを考えはじめてしまうと、

前に進み続けている列車の動きに対して、

意識とからだが追いついていけないんだなあと。

 

まあちょっと、独特の感覚かもしれないけど。

でも、わたしが高速列車で「体感」させられたこれって、

よくよく考えてみると

普段の生活でも当たり前に起こっていることでもある。

前へ進んでいいのに、昔のことを引きずるとか。

一歩踏み出せばいいのに、なにかにこだわって進めないとか。

前を向けばいいのに、下ばかりうつむいているとか。

とか。(略した)

 

前向き、後ろ向き。

よく前向きはポジティブ、後ろ向きはネガティブと

それぞれ捉えられているけど

わたしはもうちょっと単純に、

前向きは未来(可能性)を、

後ろ向きは過去(制約)を、

意味しているのだと解釈している。

 

どちらもあってよくて、

でも後ろばかり向いているのは不自然で、

人間は目が前についているから

ちょっと前を向いて歩を進めているほうが自然なのかなって。

 

たかが高速列車での時間、

されど高速列車での時間。

おもしろいことに気づかせてもらったな!

いつもありがとうしんかんせん。

 

 

 

 

こころの3D化

sarusuberi

毎日、あっついから、

8月に入ってからは

沿道の木々や花々も、心なしか存在感控えめ。

 

春先から初夏にかけては、

あんなに張り切って伸び伸びしてたのにね。

 

でも、

そんな毎日でも

無心に太陽の日射しを浴びて、

にこにこ幸せそうに呼吸をしている気がする。

もうちょっと、水は欲しそうだけど。><

 

さて、

数日前に書いた、こころの中のボールについて。

 

ひとは、起こった出来事に対して

脳というかこころというか

からだの中で「反応」をしている。

そしてその「反応」をボールでイメージしてみると、

今自分はどんなきもちなのかを「見止め」やすくなるし、

怒りや悲しみ、つらさ、などは

そこから少しずつほぐすイメージをしてみると、

自分のこころに向き合いやすくなる

・・・

というようなことを書いた。たぶん。(適当B型)

 

きっとこの感覚に近いと思うんだけど、

今日、道すがらなんとなく感じたことがあったのでメモがてら。

(メモと言いつつ、いつもより長文。長いメモ。笑)

 

今、テクノロジーがさらに発展してきて、

たとえば 3Dプリンターとか、

たとえば VR型ゲームとか、

新たな技術価値と感性価値が生まれ続けている。

 

平面的だったものを、より立体的に。

見るとか聴くだけだったものを、より身体全体で味わうように。

そのキーワードは、『リアル』。

それは、今まで脳の『想像力』で補っていた領域を、一気に現実領域に手繰り寄せたともいえる。

 

でもふと思うんだ。

相手や周囲に対する『想像力』があるから、

人はやさしく思いやりを持って生きられるのに、

こんなにどんどん立体化やらリアル化を進めてよいのかなあって。

 

『想像』することは、

そのぶん自分の中で『創造』すること。

 

ところが、

はじめから造りこまれていると、

自分なりに創造する余地がない。

ゼロではないけれど、自分なりの『想像』『創造』の振り幅はどうしても狭くなる。

(もちろん、全部が全部、そういう技術的発展ばかりではないけどさ)

 

例えていうなら、

小さい頃に絵本を読んでいて

自分なりにわくわくイメージを広げていた世界観を、

誰かがジオラマに再現したものをある日見させられたときに味わうギャップのような、

そんな感じに似ているのかなー。

 

まあそうは言っても、

ひとはどこまでも貪欲だから

テクノロジーの追求追究は今後も止まないのだろう。

うーん

進んだら、戻れないのにね。

うーん

うーん

どうせ (←あまり好きではない言葉だけどここではあえて)

ものの3D化が進むなら、

こころの3D化をもっと進めたいな、

なーんて。

 

こころの3D化とは。

自分の気持ちを認め、味わうこと。

自分の気持ちを味わい、客観視すること。

自分の気持ちを客観視し、ほどくこと。

自分の気持ちをほどき、放つこと。

そうして、自分を解放すること。

 

 

起こったことも、感じたことも、無かったことにはならない。

すべては、経験するべくして起こっていること。

でもさ、

嬉しいことや幸せなことはただ味わいつくすのもいいけど、

ショックなことやきついことは

事実を見つめるのも

それを感じている自分を受け入れるのも

難しくて葛藤が起こる。

頭も心もぐるぐるする。

 

だけど、

ふうーーっと息を深くふかーく吐いて

そんな気持ち(ボール)がここにあることも

そんな気持ちになった自分のことも

そんな気持ちを起こした出来事も

認め、受け入れ、癒し、感謝を込めて「味わいつくす」。

 

この暗いトンネルの出口がどこかなんて

皆目見当もつかないけれど、

「よし、味わいつくすか。」

そう覚悟を決めた瞬間、

手放しはもう起こりはじめている。

 

そうして

いつかそっと

自分の思い(重い)を解放したときには

それも込みで、人生経験のひとつとして自分の肚におち、

解放した分の新たな風が起こり、

なにかすてきなものが飛び込むんだろうなって。

なんかいいね。

 

いわゆるカウンセラーは、

対話のなかで、このこころの3D化を助ける職業ともいえるのだろう。

クライエントが自分の悩みを打ち明けるプロセスを通じて、

思いを言語化させることにより、

「見える化」を手伝っていく。

 

わたしは、人の悩みを聞くのはあまり好きではない性分だし

カウンセリングを生業にしている人はすごいなあとつくづく。

 

一方で、

こころの3D化は、

コツさえつかめれば各自が自分で出来ることだとも思う。

 

これからの時代は、

カウンセラーを必要とするひとと、

自分自身で自浄を進めるひとと、

二分化するのかもしれないねえ。

自分なりに自分と向き合い、癒し、進むことのできる人がもっともっと増えたらいいなあ。

そのために、わたしは何ができるだろう。何がしたいだろう。

 

 

今日のひとこと。

画像の花は、百日紅(さるすべり)。

今わりと満開で、他の木々が暑そうな中、

風にゆっさゆっさ枝を委ねて

夏を満喫してるようなその表情が面白いなー。

どの花も個性的だけど、百日紅の自由さ能天気さなんか好きだわ。

 

あたまのことば、こころのことば。

bichon frise1

前回のつづき。

書かなかった期間に見えてきたこと。

それは、

わたしという人間は、

「あたまのことば」ではなく、

「こころのことば」を綴りたい伝えたいんだということ。

 

わたしたちは、普段の生活の中で無意識に考えている。

考えるということは、脳内で言語化をしているともいえる。

 

『今日の夕飯、なんにしよう』

『あの人はさっき、何を伝えようとしていたのかなあ』

『そうだ、あれやっておかないといけなかった〜』

 

ひらめき、思索し、行動する。

わたしたちは、日々、その反応を、何百回何千回と積み重ねている。

 

 

なんだか何も書く気になれなくなっていた、6月のある週末。

部屋の書類の整理をしていたら出てきた、

自分の中高時代の原稿やら、

エッセイ作品が掲載された冊子やら。

どれどれと読み進めてみると、なかなか面白い。(自画自賛)

なんていうか狙わず、てらわず、感じるままにことばに出してる感じ。

(ああ、語彙力ない。笑)

 

「あたま」で考えて練っているというよりは、

「こころ」で感じたことをまずことばにして出してみて、

そのあと、文章を推敲している。

噛み砕いてみると、そんな感じなのかな、うん。

 

たとえば読書感想文。

当時中学生のわたしが、本を読んで心動かされたことを思うがままに。

たとえばホームステイ体験記。

当時高校生のわたしが、夏休みにカリフォルニアに滞在して、自分の目で見て聞いて実感したことをそのままに。

文字にしたら取るに足りないことなのだけれど、

今読んでもその当時の思いが伝わってきて、鮮やかによみがえって。

 

実際、当時、まずは原稿用紙にきもちを書き出して、

それを声に出して読み上げて、より自分の心情に添うことばに近づけていた。

日本語も英語も同じやり方で。

「ああそうだったよなあ、文にするってこういうことだった」

と、忘れていた原点に揺り戻された。

 

20代ぐらいからなのだろうか。

論文であったり、ビジネスメールだったり、

書くという行為にあたって、まず

導き出すべきことや、おさえるべき考え方や、伝えなくてはいけないことを

意識する機会が増えて。

それは書くことに限らず、その他なにかしら伝えるどの場面でも同様だったと思う。

書くために、言うために、なにかしらのことばをいつもあたまの中に貯めて備えている感じ。

 

とくに仕事を始めてからは、

あたまの中に絶えずなんらかのことばを持っていて、

いつしか発する言葉も「あたまのことば」になっていたと思う。

感覚(右脳)ではなく判断(左脳)寄りのアウトプット。

もちろん仕事をするうえで、考えたり判断することは欠かせない習慣なのだけれど。

でももっと、同時に、

「こころのことば」も忘れない自分でいたいし、

個人としてなにかを表現する場面では、「こころのことば」で書ける自分でありたい。

そんな自分の真の欲求が、

「書きたくない」という突然の拒否感になって表れたんだなと。

 

別に論文を書きたくないとか、ビジネスメール飽きたとかではなく、

普段の過ごし方において、

常にあたまの中に、ことばをめぐらせることをやめたい

突きつめるとそういうことなのだと思う。

ぐるぐる考えずに、フラットな自分でいることを意識する。

Googleなどで推奨されている、マインドフルネスもこの領域を目指しているのだなあと今更ながらに納得。

 

月も変わったことだし、考えるのをやめる練習、ちょっと続けてみよう。

ふと見つけたこのサイトにヒントを得て、試しにここ1週間ほどしてみてるけど

【→東洋経済オンライン「心が強いひとは「ムダな考え」を消している」】

なかなか難しいしたのしい。

そして、

「あたまのことば」を淘汰しているからか、

ひょんなことからきこえてくる「こころのことば」、

たとえば、

『これはなんかよさそうな気がする・・・』

『わー、やってみたい』

『そういうことか、なるほど』

が、よりはっきり胸に飛び込んできて面白い。

 

ひとの「あたま」と「こころ」、そして「ことば」。

やっぱり深いね。

 

さいごにひとこと:

書きたくないという謎の衝動に「なんだこりゃ」状態だったけど、

「まーなんかあるんだろう」と無理せずに放置してみて、

結果、

自分のなかの葛藤とか素直な欲求に、

いま気づくことができてよかった。まる。

 

 

 

「どうでもいい」

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以前から、まわりの友人知人や同僚によく言われること。

「ゆきさんって、いつもなんかテンション一定だよね。フラットというか」

「ゆきってなんで昔から全然変わらないの?」

「そういえば、ゆきが、怒ったりしてるのあまり見たことないなあ。波がないね」

などなど。

 

最近も、友人との食事中にふとそんなことを言われ。

まあ、たしかにそうなんだよなあ。

淡々としてるというかひょうひょうとしているというか。

別に愛がないわけじゃないけど、どこか冷めてるかもしれない。

なんていうか、ちょっと「どうでもいい」スタンスで世の中を眺めているかも。

かと言って、別に投げやりとかそういうわけでもなく。

 

当たり前だけど、

わたしだって人間だから、いらいらもするし怒りもする。

たまに、「はあ?」と思うような言い方をされて「あんた何様だよ」とぷんすこしたい時もある。

 

で、一時期こんなことを試してみた。(実験好き)

 

『相手が負の感情だったら、

こちらも、負の感情で応じてみる』

 

もともと相手のきもち・おもいを察しやすく、大事にしたくなる性格なので、

自分のきもち・おもいには蓋しがちなところもあるわたし。

でも、アクの強い方に対して、蓋してばかりいたら苦しくなってきた。

そこで、

我慢しないで、どんどん言いたいこといった方がよいかなあ、

と試してみたのだった。

 

たとえば、

打合せ中に、自分の意見に対してわたしが予想外の案を出して、途端に不機嫌になるひと。

表情が変わる、つっけんどんに対応してくる。

ならばと、わたしもつっけんどんに応じてみる。

たとえば、

これまで相手がやってきた施策や方法に対して、わたしがここはアップデートしませんかと提案する。

表情が変わる、わたしの説明が終わるのを待たずに細かなところを指摘してくる。

ならばと、わたしも話を遮ってみる。(がこれはだいたい失敗する。笑)

以前なら、自分がなにか悪いのではないかと、いろいろアプローチの仕方を工夫していたことを一切やめて、相手の心情やことばに応じて好き勝手やる感じ。笑

 

で、気づいたこと。

 

『負の感情は、きもちのよいものではない』

とくに自分が。

 

まあごくごく当たり前なんだけど・・・

相手が発したものであれ、自分が出したものであれ、きもちのよいものではない。

ということはつまり、

相手が負(マイナス)のエネルギーであることが変えられないのなら、

すくなくとも、自分だけでも正(プラス)のエネルギーを発したほうが、

トータルでみれば、

自分が楽になるし、きもちがいいということ。

 

 

ちょっと前のわたしは

相手に「期待する」から、いちいちがっかりしていた。

相手に「期待する」ことと相手を「信頼する」ことをちょっと混同していたな。

自分がいい姿勢やいい態度に努めれば、相手もいい反応をしてくれることを当然だと思ってたし、

実際のところ、入社当初はそんないいひとたちに恵まれて仕事をしていた。

だから、いい反応をしてくれることを自然に「期待する」ようになったかもしれない。

でも実際のところ、世のなかはそういう方たちばかりではなく。

あれ? 信頼しているひとなのに、なんか反応がおかしい。

でも、それは信頼しているのではなく、わたしが勝手に相手に期待しているだけ。

 

なんかごちゃごちゃ書いているけど、

結局は、目の前の相手は「どうでもいい」。

こう書くと言葉はわるいけれど、「どんな相手でもいい」ということ。

相手がどうあろうが、変わらない。それで、かまわない。

気にすべきは、相手の(負の)感情ではなく、相手のコミュニケーション内容。

相手がどうあれ、自分はじぶんのままでよくて、

負の感情まで受け取る必要はない。

相手が「何を言っているか」を捉えて、それにきちんと反応することに集中する。

ただそれだけ。

 

目の前の相手がなにか理解しがたいことを言い始めたり、

予想外の反応をしはじめたら、

まず「どうでもいい」と心で呟いてみる。

そうすると、不思議と、目の前に「いる」だけになる。

自分自身と相手のあいだに、そっと線が引かれる感じ。

アドラー心理学でも、「課題の分離」という考え方(理論)がある。

相手の課題まで背負い込む必要はなく、自分の課題と相手の課題は分けて考える。

負の感情をもつ相手とかかわっているとき、

自分までもがその感情を受け取る必要はない。

そういうことだよね。

 

そんな感じで、

負の反応を返すひとに対して

負の感情で呼応することは、分離ができていない、

という状況を、実験を通じて、みずから体感できたわけで。

 

今までは、

「なんかこの人ちょっと反応が変だな・・・」

と思ったら

「シャッターを下ろす・閉じる」(閉店ガラガラ)

ことを無意識にやってたけど、それをしていた意味が捉えられてよかった。

守るとか逃げるとか以前に、

自分は自分、ひとはひと、という線引きを体現しようとしていたのだなと。

こころの反応って、ちゃんと意味があるんだなあ。

 

そして、今までは気づけなかったこころの動きに気づけたので、

どんな縁であれ、経験であれ、意味があるな、と改めて。

実験ばんざい。